農民から天下!豊臣秀吉の人生

どうも、りかちゅうです!皆さん天下人の1人でもある豊臣秀吉はご存知かと思われます。猿と呼ばれている人、農民から天下を取った人など定評に関しては色々なものはありますが少なからず天下を取ったという偉業はあります。なかなかすごいですよね。農民からここまで出世するとは。おそらく、この記事を見ている方ではどんな人生だったから秀吉は天下を取ったのかと気になる人もいることでしょう。ということで、この記事では秀吉の人生について話したいと思います!

秀吉ってどんな人?

まずみんな秀吉のことはご存知かと思われます。有名な歴史上の人物ですからね。ただ幼名なり詳しいことは分からない方もいるかと思われるので簡単なプロフィールを作りました!

名前 豊臣秀吉

生年月日 1537年3月17日

出身地 尾張国

幼名 日吉丸←後々つけられたかも?

身長 140cm←ミニマムですね!

ニックネーム 猿🐒

秀吉の人生

秀吉の簡単なプロフィールを見ていただけたということで早速ですが本題でもある秀吉の人生はどんな感じだったのかについて話したいと思います!

1.秀吉誕生!

1537年に秀吉は尾張国で産まれました。生まれた日時に関しても謎ちゃ謎です。戦国時代はそういうことあるあるですけどね。そんな話はさておき秀吉のお父さんの名前は木下弥右衛門。どうやら秀吉のお父さんは武士としては身分が低いとされている足軽または農民だったと言われています。どんな説であれ秀吉は貧乏人だったのは間違いないですね。まあ、秀吉の出世については謎だらけではあります。なんか秀吉のお父さんの死後に秀吉のお母さんは竹阿弥という男と結婚したや、秀吉が元服の頃に竹阿弥にいじめられたなど。昔の時代は説があるのでなんとも言えない点はあるんですけどね。まあ、ここでは秀吉は貧乏だったことくらい分かっていればなんとかなります!適当すぎるだろって?だってしょうがないじゃないですか…。

2.遠江で足軽デビュー!

秀吉が農民から武士になるきっかけですね!まあ、農民に生まれが武士になれるのは戦国時代だからなんですけどね!江戸時代以降は「士農工商」の身分制度が確立されてたら一生その身分にならざる得ないですから。

ですが、戦国時代にはそんなのはありません。それもあって、いざ戦いになると人集めが始まります。戦国というだけあって戦う人は欲しいという意味で。あとは農民もこのご時世ということで自分の土地を守るために武器を持つこともあった時代です。

それで秀吉は木下藤吉郎と名乗り松下之綱に仕えることになりました。松下之綱は遠江にある頭陀寺城の城主。松下之綱の地位としては遠江を支配していた今川氏の家臣です。秀吉にとっては今川家との関係は家臣の家臣ですね。ちなみに秀吉は松下之綱には、それなりのお礼をしています。そりゃ、足軽であれ武士デビュー出来たわけですから。松下之綱はしばらくして徳川家に仕えることになりましたが最終的には秀吉に頭陀寺城の近くの城を与えられています。

3.信長の部下になる

今川氏家は戦国時代になって、遠江まで勢力を拡大したものの松下之綱のような土豪たちを傘下にしただけでした。江戸時代なら主君を変えることは不可能です。ですが、戦国時代はダメな主君は見捨てることなんて普通です。要するに武将を集められらかに関しては力量次第ということです。

となると信長はその当時のカリスマという存在ですね。そこで、秀吉は1554年に信長につきました。例の草履ネタもその時代のはなしですね。信長もあの時はまだ弱小大名であり秀吉にも近づくチャンスがありました。最終的には信長は草履ネタに好感を持ち、秀吉を部下とすることにしました。ちなみにサルというあだ名は信長が付けたものです。

4.秀吉、結婚する!

秀吉は信長に気に入られてました。それもあって同僚には好かれるのは当然の話!例えば足軽組頭の浅野長勝とのエピソード。後々豊臣家の有力な大名になりますがその当時は遠い身分の話。実はこの秀吉、1561年、浅野長勝の養女おねと結婚したのですよ。おねとは北政所様ですね。初めはおねのお父さんは足軽との結婚は反対とは言っていたもののなんだかんだで結婚しました。この当時血縁関係を結ぶのは強いご縁になります。それもあってこの2人は強いご縁となりました。

5.功績を上げる秀吉

信長に好かれるだけあって秀吉は功績を上げていました。まずは美濃攻め。美濃は斎藤道三が治めていましたが息子とのバトルで斎藤道三はいなくなったあとは混乱状態でした。ついでにその息子もいなくなりました。斎藤道三に関してはこちらの記事を見てください!

美濃のマムシ!斎藤道三の人生!

それで、秀吉は1563年に美濃を攻めて織田家の領地にしました。戦国時代なので極論、誰が治めようと何とかなるのが事実です。他にも浅井長政との戦いで勝ったり、中国成敗で水攻めなどの実績はありますが長くなるので割愛させていただきます。別記事で書けたら書きます!

6.信長の死と転機  

1582年とある出来事があります。そうそれは本能寺の変です。明智光秀が信長を裏切った話ですね。その時に信長は自害しました。本能寺の変に関してはこちらの記事を見てください!

なんで?本能寺の変が起きた理由

秀吉は信長がいなくなったということを知り中国攻めから早急に帰還。中国のおお返しですね。その時に秀吉は山崎の戦いにて明智光秀に勝ちました。これが秀吉にとっての転機になります。そりゃ理由がどうであれあの当時のトップこと信長に謀反を起こした人を倒したのは秀吉ですからね!

その後は織田家の跡継ぎ会議などでは自分が有利になるようにしたり、柴田勝家との戦いに勝ったりして権力を高めていきました。まあ、秀吉の天下となる家康とは睨み合ったままの関係でしたけどね。

7.関白豊臣秀吉になる。

1585年に秀吉はその関白の職を朝廷から与えられました。また、1586年には正親町天皇から「豊臣」の姓を与えられたり、官職も最高位の太政大臣に任命されりと出世の道そのものです!また、1587年には島津家を制圧したり、1590年には小田原攻めをして勝ったらなどをして天下統一をしました。

8.衰退と最期

色々あったものの天下統一をすることのできた秀吉ですが、最期は衰退そのものです。秀吉は欲が強くなってしまい、明の制圧にまで目標を拡大した彼は、1592年、文禄の役と呼ばれる朝鮮への出兵に失敗します。その失敗はツケとなってしまいます。負けたから武士達には恩賞はあげられません。これがのちのちトラブルになります。それなのにもかかわらず、わずか5年後の1597年には再び朝鮮へ出兵し慶長の役と呼ばれる戦争を始めます。ただ1598年に秀吉は病になってしまったので停戦。そして、秀吉はいなくなってしまいました。

豊臣家が2代で終わった理由

豊臣家は秀吉からの秀頼の2代で終わってしまいました。あっけらかんとしているなぁって感じですよね。せっかく農民から天下取ったのに長続きしないなんて。これには色々理由があります。三成の影響なり、秀吉が子供産める体でなかったなり。

ただ私的には秀吉は女選びを間違えたのが1番のミスかと思われます。秀吉がもっとも寵愛したのは淀殿ですがその人はぶっちゃけたことを言うと天下人の妻としては相応しくありません。それが一層露呈したのは秀吉の死後なんですけどね。大坂の陣の時など戦力として使えなかったらしいです。豊臣方の重要人物だったのにもかかわらず。要するに、天下人に寵愛された女性として頭を使う能力がない人を選んだことが豊臣家を滅亡してしまったのかと思われます。その点家康は女性選びは間違っていなかったんですけどね。その話に関しては話すと長くなるのでこちらの記事を読んでください!

徳川家が260年続いた理由はパートナーの選び方:秀吉と家康の違い

まとめ

私的には秀吉の人生を振り返ると初めのうちは健気に頑張っていたとは思います。そうじゃないと天下なんて取れませんからね。ですが、天下を取ってからはかなりの欲というものは出た気がします。その欲のせいで天下を取ったとしても衰退そのものでした。まあ、この記事に書かれていない欲望の話に関してはありそうですが。そんな時に誰かしら止めることができたらおそらく、秀吉は違う人生が歩めたのかなと思います。これぞパートナーの重要性ですね←。あとは出世しても健気にいるマインドは待つべきだったのかと思っています。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう