出世所!明智光秀と延暦寺焼き討ち

どうも、りかちゅうです!信長側が朝倉・浅井を倒すために行った延暦寺焼き討ち事件というものが昔ありました。えっ?お寺を焼き討ち?そうなんですよ。強行策ではあったんですがお寺を焼き討ちしたのは事実です。その際に誰が1番介入したのか?それは2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公でも明智光秀です。実は彼が延暦寺焼き討ちの担当でもありその時の功績により出世しました。そりゃ光秀のおかげで勝てたと言っても過言ではないですからね。では、具体的にどのようなエピソードがあったのか?この記事にて話したいと思います!

光秀とはどんな人?

まず、本題に入る前に延暦寺焼き討ち事件の担当でもあった光秀とはどんな人なのかは気になりまなすよね?ですので、光秀とはどんな人かについてから話しますね。

光秀とは現在でいう美濃国で生まれた戦国武将です。いつ生まれたかは不明です。少なくとも彼が結婚したのが1546年ですのでそれ以前なのは分かります。光秀は初め斎藤道三に仕えていましたが斎藤道三が息子に殺されてからは朝倉義景の元で暮らしていました。ですが、実力があったため室町幕府15代将軍足利義昭に仕えていました。じゃあ信長にいつ仕えたんだよって。その後です。光秀は足利義昭と信長の仲介役をやってしまして、延暦寺焼き討ちシーズンから信長側に仕えるようになったそうです。それで、色々ありまして本能寺の変で信長を殺しました。

※光秀の人生についての詳細はこちらの記事に書かれています。

明智光秀とは:麒麟がくるの主役の人生!

延暦寺焼き討ちとは?

以上が光秀に関する情報です。彼は謎が多い点があるので語れる点が少ないですが少しでも分かってもらえると嬉しいです。さて、その光秀が担当した延暦寺焼き討ち事件とはどんな事件だったのか?

延暦寺焼き討ち事件になったきっかけは朝倉・浅井との対立です。その当時信長は足利義昭のおかげで勢力を付けていました。それもあって信長は朝倉義景に上洛を求めました。ですが上洛するところが聞く耳すら持ちませんでした。そのような態度にブチ切れた信長は朝倉家を攻撃することを決意しました。えっ?じゃあ浅井はどうしてなのって?浅井家に関しては信長の家臣でしたが途中から裏切りました。

それで、色々ありましたがなんとかして姉川の戦いでは朝倉・浅井を打ち負かすまでできました。ですが、朝倉・浅井が比叡山延暦寺に逃げ込んで戦いは停滞してしまいました。そこで、強行策として延暦寺焼き討ちをしました。

※延暦寺焼き討ちの詳細についてはこちらに書かれています!

なぜ信長は比叡山延暦寺を焼き討ちしたのか?

延暦寺焼き討ち最中の光秀

以上が光秀と延暦寺焼き討ちの概要です。では延暦寺焼き討ち事件が起こっている時の光秀はどのような状況でどのように焼き討ちを実行したのか?

1.宇佐山城主になる

実は朝倉・浅井の戦いによって森可成という人がが戦死してしまいとある問題点がありました。それは森可成の城でもある宇佐山城の城主がいなくなってしまったことです。そこで、光秀が城主になりました。ちなみに宇佐山城は近江エリアでもあり重視されていた場所でもありました。なぜなら、近江は信長の本拠である尾張・美濃・京を結ぶ通路になっていたからです。となると光秀は信長から評価されていたことにもなりますね。

2.延暦寺焼き討ちの計画

信長は延暦寺との交渉が決裂したことで延暦寺を攻撃するという計画を伝えました。その際に光秀は琵琶湖の西部に勢力を持つ、土豪の和田氏や八木氏に声かけをしたそうです。その際に光秀は延暦寺の攻撃に参加し、敵を皆殺しにしようと言っていたそうです。また、延暦寺の近くに拠点があった光秀は信長からも期待されていました。

3.焼き討ち実行

延暦寺焼き討ちは1571年の9月12日に実家されました!光秀吾戦い様や功績を立てたのかについては『信長公記』に書かれています。

山下の老若男女は右往左往して逃げまどい、取るものも取りあえず、みな裸足のままで八王寺山に逃げ上り、日吉大社の奥宮に逃げ込んだ。諸隊の兵は、四方からときの声を上げて攻め上った。僧、俗、児童、学僧、上人、すべての首を斬り、信長の検分に供して、これは叡山を代表する高僧であるとか、貴僧である、学識高い僧である、などと言上した。そのほか美女や小童、数も知れぬほど捕縛し、信長の前に引き出した。

『現代語訳 信長公記(新人物文庫)』より引用

この様子から見ても光秀はこてんぱにしたことが明らかですね。また、武士だけでなく助成や子供までも犠牲にしたとは残酷な感じです。これは手段を選ばなかったと言っても過言ではありません。

延暦寺焼き討ち後の光秀

以上が延暦寺焼き討ちの時の光秀でした。では延暦寺焼き討ち後の光秀はどうだったのか?

1.坂本城を建てる

延暦寺を滅ぼした後、光秀は信長にかなり評価されたことから滋賀郡を与えられ、坂本城を新築し、城主になりました。これを見ても光秀なら功績は凄かったことが明らかですね。それ故に今まではわずかな俸禄しかもらっていなかったのに、いきなり大名級の実力を持つにような存在になりました。この描写から見ても信長は実力がある人にはかなりの待遇を与える人と物語ってますね。

2.信長に接近する

光秀が信長に接近したのはこの頃です。それまでは足利義昭にべったりでしたが軽視するようになりました。それもあって足利義昭から横領などの過失を指摘されても塩対応でした。その理由としては信長ほどの実力があれば権威に恐れることなく勢力を得られると考えていたからかと思われます。また、信長もそのことを知ってたからこそ光秀を重用するようになり信長界隈の重要人物でもあり2番手にもなりました。

3.横領を進める

横領したのかよって?そうなんですよ。したんですよ。光秀は滋賀郡を得ただけでは満足しなかったようで山門領(延暦寺の所領)の接収を進めていきました。これに関しては色んな人が止めようとした。ですが、光秀は領地の占拠をやめず、居座り続けました。また、それだけではなく、光秀は皇族関係者の所領にも手を出し、色々な寺院を横領しました。寺院に目をつけた理由としては延暦寺エリアの寺院が皇族が門主になることが多く、朝廷との関わりが深い状態にあったからだったそうです。

ただ、これに関しては足利義昭から忠告を受けていたそうですが光秀は反省をしないで横領を続けていたそうです。功績をあげてしまったことでモラルよりも自分の欲の方が先立っているのが物語られていますよね。

 

まとめ

延暦寺を焼き討ちした光秀の気持ちに関してはどうだったのか読めない点もあります。積極的にやっていたという発言もあれば、焼き討ちの影響で信長に嫌気をさしてきたという説もあれば色々あるからこそ。まあ、こればかりは本人のみぞ知るって所です。ですが、少なくとも言えることとしてはまたはで的にはステータスは上がったことには上がりました。

要因としては寺を焼き討ちにするというのは悪いことは悪いことではあるんですけど朝倉・浅井の抵抗を止めることができたからですね。要はその当時の信長は精力を強めてナンバーワンになりたかったからこそ光秀のおかげで一歩進めたということですね(その後のは足利義昭と対立など不穏なことはありますが)。また、光秀も出世したことからお互い飛躍する機会になった事件であったかと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう