5年かかった?光秀の丹波平定とは?

どうも、りかちゅうです!歴ヲタからしたら光秀は優秀な武将であるのはご存知かと思われます。あまり知らない人からすると信長を殺した功績しか知らないのが悲しい現実ですけどね。本能寺の変を功績というなって?だってそれで目立ったんですから功績ですよ。まあ、そんなことはさておき、そんな光秀でも手こずったものがあります。それは丹波の平定です。丹波を平定した理由を簡単に言えば信長の天下統一という目標を達成するためです。ただ、丹波に関してはなかなか上手くいかなかった1つでした。ですので、この記事では光秀と丹波平定について話したいと思います!

丹波平定する理由

丹波を平定した経緯に関して話さないと話が見えないところもあるかと思われますので丹波を平定する理由と光秀が選ばれたについて話したいと思います!

平定理由

丹波攻略が始まったのは、1575年のことです。なぜこの地を平定したかと言いますと毛利攻めの準備のためです。信長は、毛利を攻め落とすには山陰を処理する必要があると考えました。そして、その中でも丹波を平定することを重点としました。ちなみに丹波はどこかというと、現在の京都府・兵庫県にまたがる地域です。

なぜ光秀が選ばれたのか?

それで、沢山の家臣がいる中なんで光秀が選ばれたんだよってなりますよね?まず、丹波は光秀がその当時拠点とする坂本から近く、平定すれば信長が拠点としていた近江の東に位置する岐阜から西へ攻めやすくなるわけです。また、丹波は室町幕府の15代将軍こと足利義昭に味方する者ばかりでした。これは信長にとってはまずいですよね。信長は足利義昭を追放した人間だからこそ。要するに、親義昭派の連中を排除しようという考えもあったということです。じゃあなんで光秀なんだよって。それは昔光秀は足利義昭に仕えていたのもありそこらへんの情報は詳しかったからかと思われます。

丹波平定の経緯

丹波平定にはかなりの時間がかかりましたがどのような経緯だったのか?

1.開始と裏切り

1575年9月に信長きら丹波出陣の命が下ります。それで、まず11月に丹波黒井城を包囲し攻めました。その際に丹波国衆の過半数は光秀に味方してはいました。ですが、1576年1月15日、黒井城の赤井直正を攻撃しているときに八上城の波多野秀治の謀反によって敗走してしまいました。ですが、2月18日、丹波に再度出陣しました。

2.妻の死と自分の病

再度出陣しても上手くはいきませんでした。なんと、4月から石山本願寺攻めに加わったもののみつひでは病にかかってしまいました。また、11月には妻の煕子が病死するなどピンチパラダイスになってしまいました。

3.再度の戦いと平定

このような形で戦いはしばらくできなかったものの1577年10月、丹波攻めを再開しました。光秀の根性は素晴らしいです!なんと、光秀さ丹波亀山城と丹波八木城を奪ったり、丹波籾井城を攻めたりします。その結果丹波船坂城、籾井城が落城しました!それ以外にも色々功績はありますが割愛させていただきます。そして、1579年には謀反を起こした波多野を成敗したり赤井家を降伏させたりしてようやく平定することができました。

丹波平定で光秀を苦しめたのは?

5年間も手こずったのには理由はあります。それはとある2人が光秀を苦しめたからです。誰なのか?

1.赤井直正

赤井直正とは丹波の氷上郡を拠点としていた豪族で、黒井城の城主です。通称は悪右衛門でなかなかのワルな奴でした。どれだけ悪かと言いますと次男だった直正は外叔父の荻野秋清の養子となったのにその養父を殺して黒井城の城主となっています。

2人の戦いでは初めは光秀が優勢でした。ですが、波多野秀治の裏切りにあい、光秀は敗れて撤退することになってしまいます。そして、ここから先もかなり大変でした。なぜなら赤井直正はかなりの強敵だからです。それもあって、何度か攻撃するも、逆に追い込まれる始末でした。結局は1579年9月には黒井城を落として勝利します。ですが、光秀は直正と戦って勝利したわけではありませんでした。直正は丹波平定の前年3月ならいなくなったことで光秀が優勢になっただけです。タイミング大事ですね。

2.波多野秀治の謀反

波多野秀治という人が光秀を裏切りました。しかもまずいことに丹波八上城を本拠地としていだ人でした。初めのうちは光秀の軍の一員として織田勢力に反発する人たちを討伐していました。ですが、黒井城がもう少しで落ちるという時に裏切ったそうです。説では実は裏切る予定だったそうです。それもあって初めのうちは敗走した光秀。それかは、信長に大軍を与えられて丹波攻略を再開しました。それでも、波多野は耐えました。結末としては波多野は1579年6月に兄弟ともども降伏することになりました。

丹波にかかりきりではない

たしかに苦しめた人達はいたことにはいます。ですが、光秀もその5年間丹波にかかりきりではなかったのは事実です。

まずは謀反があったため撤退している時期もあったり、荒木村重の謀反の相談、他の戦に駆り出されていたりもしました。ちなみに、光秀は1576年には石山本願寺攻めの際、危ない目に遭いあったり、忙しかっりしたため倒れてしまいました。それでも、やりのけた光秀の精神力はすごいですね。また、同年には光秀の妻の煕子を病で亡くしています。このように、丹波平定の時期に色んなことがてんこ盛り状態でした。

丹波平定後の光秀

なんとか平定してから光秀はどのような待遇を受け、どこを拠点として活動していったか?今から話したいと思います!

信長の反応

信長は光秀の功績に対して大いにほめたと言われています。それはこの5年間で別の戦にいたり、妻がいなくなったりなど色々あった中なんとか功績を得たからかと思われます。また、信長も丹波平定が簡単ではないことは信長も分かっていたからこそ諦めずに平定したことに対して褒めたと思われます。それ故に信長は光秀に丹波一国29万石を与えていました。一応光秀は坂本城はありましたが近江の志賀郡を所有している程度でした。それから丹波やら今までの領地含めて35万石にはなったというのはかなりの出世です。

光秀の拠点

光秀は亀山城を1977年に手にして以降、丹波攻略の拠点としています。丹波平定にまず福知山城の改修に取りかかったとされています。ですが、光秀自身はそこにはいませんでした。では、なぜ亀山城なのか?亀山城は現在の京都府亀岡市らへんにある城で坂本城と行き来しやすい場所にあったからです。

まとめ

光秀は優秀な武将であるのは麒麟がくるを見てもわかります。まず、信長のサポート役という時点で相当なスペックですからね。そのような人なのにもかかわらず丹波ではここまで手こずったというのは相手側も相当強かったと思います。それでも、めげずに戦ったのが光秀でした。おそらく、平定することを指名としていたから5年かけても頑張ったのかと思われます。これは信長も認めますよね。

ただ、時系列を見ても本能寺の変まで刻々と近づいています。丹波平定の時は信長に貢献したいという気持ちは少なくともあったのに。要するに、これ以降の光秀の心理状況を追っかけていきたいなと思っているということです。おそらく、ここからが見所になってくると思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう