家康と戦った!石田三成の人生

どうも、りかちゅうです。皆さん石田三成という人物はご存知ですか?あの関ヶ原の戦いで家康に負けた人でしょ?なんか学校の教科書にちょっとだけ書いてあるから名前くらいは分かるけどという回答をする人が多いかと思われます。そうです!正解です。三成は関ヶ原の戦いにて家康に負けてしまった人物です。だけどそれ以外に分かる人は歴ヲタでない限り少ないと思います。ということで、この記事にて石田三成(以下三成)とはどんな人生を歩んでいたかについて話したいと思います!

石田三成のプロフィール

三成ってどんな人であるのか分からないというか方もいるかと思いますので簡単なプロフィールを作りました!

名前 石田三成

幼名 佐吉(左吉)

生年月日 1560年

身長 156cm

出身地 近江

特徴 華奢な体格

性格についてはこちらを見てください!

一体何者?三成の性格とは?

石田三成の人生

三成に関する基礎的な情報は分かったかと思うので本題でもある三成はどんな人生だったかについて話したいと思います!

1.三成誕生&秀吉との出会い

三成は1560年今の滋賀県でもある近江国にて次男として生まれました。幼名は佐吉です。ちなみに誕生日は不明です。石田家はどんな家かと言うと浅井家に使える土豪でした。ですが、浅井家は1570年に信長との戦いで滅亡してしまいました。その後、石田家は秀吉に仕えます。

これは三成にとって転機でもあります。そうです。三献茶の話です。三成はその当時、観音寺の小姓でした。実は秀吉が鷹狩りの帰りに観音寺に寄りました。秀吉は喉に渇いていたので小姓にお茶を出して欲しいと言いました。その小姓はなんと当時の三成でした。三成ははじめに大きいお茶碗にぬるめのお茶を持ってきます。秀吉は美味しいと思い2杯目を頼みました。それで三成は少し小さめのお椀にやや熱めのお茶を持ってきます。そして、さらに秀吉はまたまたお変わりしました。三成は小さなお椀に熱々のお茶を持ってきました。

この意味は喉が乾いているから初めは緩くて飲みやすいお茶を出す。次にこのような配慮が秀吉には響き三成を召し使えることを決意します。それで、喉が潤ってから熱いお茶を出すことでお茶の旨味を味合わせるという意味です。このような気遣いがあったことで秀吉は三成を召し使えることを決意しました。

2.秀吉時代の実績

三成が活躍し出したのは1582年以降です。本能寺の変で信長がいなくなった時ですね。三成は武功でも成果はあるものの内政で評価がありました。1585年に秀吉は従一位関白に就任したのと同時に従五位下治部少輔に叙任されています。その当時、上杉家とのやりとりでした。上杉家は信長の死後、秀吉に接近していました。その時に細かい気配りをしたことで上杉家と豊臣家はわかだまりもなくやり取りすることができました。これは他の家とのやりとりでも活躍しています。そのため、1586年に三成は堺奉行に任じられました。

他にも1583年の賤ヶ岳の戦いでの武功や1592年のキリシタン対策でも活躍していました。ただ秀吉が活躍するとともに執行役の三成は他の武家からの対立やクレームがしわ寄せのようにやってきて人間関係は崩れる元とはなります。

3.色んな武将との対立

1592年の朝鮮出兵で文禄の役で三成は総奉行へ任命されます。激戦のため講和の際には明の使者を伴って帰国するなどの外交業務をしていました。ただ戦いは激戦なだけあって日本への成果は乏しいものでした。また、1598年に秀吉がいなくなったので朝鮮出兵は停止され、加藤清正の武断派とバトルが始まりました。理由は戦ったのにものにもかかわらずお金が出ないと苛立つ武断派。戦後処理に忙しい三成。2つの派閥で対立が発生していました。これに関しては三成は融通が利かなく理屈ぽいと言われていた性格があらわになっていました。現代でも同じことですが管理している側には現場の現実は見えにくいものです。その際に三成は現場の現実というものに目を向けられず理屈で返していたのもあり反感を買いました。

4.襲撃と蟄居

三成は戦後処理で忙しい中、関ヶ原で三成の敵でもあった家康がとある動きをしていました。それは武断派の大名に声かけをし、私的に自らの縁組をしたことです。これはその当時の決まりではアウト行為でした。秀吉が生きていた時に決めたルールですが。ただ、いなくなってもこのルールは適用されていました。そこで、前田利家などが家康を問い詰めてたものの反省文を出して解決となりました。

これはこれでなんとかなったものの最大のピンチは2か月後に前田利家がいなくなったことです。前田利家がいなくなるとその当時、下心のあった家康を止めるに止めにくい故に武断派は家康になびきやすいからです。それが顕著に現れたのが三成が三成が加藤清正、細川忠興など7名に屋敷を包囲される事件が起きたことです。理由は朝鮮出兵の対立がメインです。あれを機に人間関係が大いに崩れたということですね。元から融通が利かない性格のもあり蓄積はありましたが朝鮮出兵は武断派にら怒りのピークでした。三成は襲撃を察して家康に助けを求めたところ今後喧嘩が起きないようにと三成は佐和山城へ蟄居という形で処理されました。

5.関ヶ原の戦い

三成襲撃事件から数ヶ月後に家康は家康は秀吉の後継こと秀頼に挨拶するために大阪城に行きます。その際に前田利家の跡継ぎこと前田利長が家康暗殺を企てているという噂があったことで家康は前田家を退かせるということをしたことで家康の権力派強まりました。そのため、家康は独断で領地を変えるなどをしました。ただこれを許す人間はいませんでした。それが上杉家でした。義が強い家元だからこそ汚いやり方に嫌気がさしたんでしょうね。これに対して家康は上杉家と戦うことを決意し出兵のために大阪城を出ていきました。

これは三成にとってはチャンスです。家康がいないからこそ、三成は大阪城に戻り、今後家康の悪行を止めようということから家康と戦うことを決意しました。ただ三成は19万石に対し、家康は250万石。これでは戦いになるにならないので三成は毛利輝元に総大将を依頼しました。毛利輝元は120万石の有名大名で三成とも親交が深い大名でした。三成が関ヶ原の総大将出なかったのはステータスが釣り合わなかったこともあるでしょう。一方、三成は佐和山城で家康と戦う準備をしていました。その頑張りで西軍は8万人まで集まりました。

そして、1600年9月15日に家康の東軍と三成の西軍がぶつかりました。これが関ヶ原の戦いです。岐阜の関ヶ原でぶつかったことがきっかけです。正直な話最初は西軍方が有利だったんですよ。東軍が当日遅れる人員もいましたし。具体例を言うなら徳川秀忠です。真田昌幸・幸村にズタズタにされてました。

しかし、そんな状況は崩れてしまいました。それは小早川秀秋の裏切りです。三成の親友大谷吉継は小早川秀秋は裏切ると予想してましたが予想外なこともありました。それは小早川秀秋の周りにいる武将まで裏切ったことです。そのため、大谷軍はボロボロになり、敗走、三成はこのような情景を見て絶望しました。

6.処刑と最期

大谷軍も敗走するなら三成も敗走です。まずまず伊吹山に入りました。ただそれでは追われるとなり、東の相川山を経て春日村へ逃れます。その後に新穂峠を迂回して姉川に到着し、そこから曲谷を出て七廻り峠を経たのちに草野谷へと至ります。これでも、まだまだ追われます。そこで、三成は9月21日には自身が支援していた古橋村を頼ります。村人は三成を支援しました。しかし、しかし東軍の田中吉政が率いる追捕隊が、三成を見つけたら年貢を永久に免除するが匿うならば三成同様罪を着せると言いました。三成は村人に迷惑をかけたくないから居場所を教えろと言ったことで三成は捕まりました。捕まった際は三成と対立していた武将から貶されていました。そして、10月1日に六条河原で処刑されました。

三成に対してどう思う?

なんかもったいない人だなって思いますね。頭もいいからこその優秀な人材ではあります。ですが、義の強さや融通の利かない点が損しているなと。本当はいい人なのは私も見ていて分かってはいますがそれが人に伝わってないほどもったいないことはないですよ。なんかいい所知っている人からしたらなんでこんなに人付き合い悪いのって思ってしまいます。それもあって大河ドラマで三成の処刑シーンを見るとついつい切なくなりますね。生き方変われば人生変わったのにと。

まとめ

3月27日が三成の日だから、せっかくの記念日に記事を書こうと思いました。(26日の時点で三成は27日三成の日だからとTwitterで言っていたのもあって)。正直に言うと三成って教科書上ではたった1回しか出てこないし影が薄いとは思ってました。ですが、大河ドラマとか見るとこんな人間だったのかという気づきを発見しました。それもあって三成に関してはネタにしたいとは思いました。

書いてて思うこととしては何度も言いますがもったいない奴ですね。対人関係改善すれば絶対いい人生があったのにと。また、三成の姿を見ると教訓にもなりますね。一度きりの人生を台無しにしたくないからこそ。要は本当に悪い奴じゃないってことは私は分かっていることです。それ故に、興味のある人材です。ですので、三成の存在はもっと知られて欲しいです!以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

りかちゅう