なぜペリーは黒船で日本に来航したのか?

どうも、りかちゅうです!江戸時代って鎖国していたのはご存知ですかね?理由としては様々ありますが最大の理由は他国に侵略されたくなかったからだそうです。これは駿台の日本史の先生から聞きました。ですが、幕末になってくるとそうはいかなくなってきました。なんと、外国人の人達が日本にやってくるようになりました。その一例がペリー来航です。あの黒船できたペリーですね。日本史で絶対に習いますよね。だからって、なんで日本にやってきたんだよって思いますよね?しかもいきなり。ということで、この記事ではペリーが日本に来航した理由について話したいと思います!

ペリーとはどんな人?

てかさ、ペリーってどんな奴って感じですよね?ちなみにペリーの本名はマシュー・カルブレイス・ペリーです。また、身長は193cmだったそうです。いやいや、そこだけじゃなくてどんな人生歩んでたんだよって。軽く話しますね。

ペリーの人生

ペリーは1794年 4月10日アメリカのロードアイランド州アメリカ海軍大尉のクリストファー・レイモンド・ペリー家の三男として生まれまして14歳で士官候補生の辞令を受けアメ海軍に入隊しました。それで、それからは米英戦争に参加したり同年海軍大佐に昇進したり、代将の地位を得たりなど色々活躍してたそうです。そんな中、1852年 11月に、東インド艦隊司令長官に就任し日本開国へ向けて交渉するよう依頼する大統領の親書を手渡すよう指令を与えられ、1853年 7月8日、浦賀に入港しました。その際に色々成果を作って1858年 3月4日ニューヨークでいなくなったそうです。

ペリーのあだ名

実はペリーにはあだ名がありました。それは熊親父です。ペリーは海軍に入ってから高スピードで出世していったそうです。それで、海軍界隈では艦長の事を「親父」と呼ぶ習慣があり、ペリーは親父扱いだったそうです。にしても、なんで熊なのって?実はペリーの体格は、今でいうプロレスラーの様な大柄な体格でもあり、迫力のある態度やら大声であったため熊親父だったそうです。

なぜ浦賀だったのか?

以上がペリーに関する概要です。これを見てもやり手でもあり体型は熊だったら日本人からしたらビビりますよね。いきなり黒船でやってくるなんて。にしても、日本の中でもなんで今の神奈川でもある浦賀に来たんだよって?幕府が貿易や外交をおこなっていた長崎なのにと。ですので、次にその話をしますね。

1つ目は、妨害される可能性があったからです。鎖国していたとはいえどもスペインやポルトガル、オランダとは関わりはありました。となると長崎に行くとオランダなどが交渉を妨害するかもというリスクが発生してしまいます。そして、2つ目は幕府に開国を強制するための威圧行為がしたかったからです。ペリーは交渉中にもし大統領の国書を受け取らないのであれば直接将軍に面会すると威圧しています。熊親父から言われたらビビりますね。それ故に幕府はペリーが持ってきた大統領の国書を受け取ることになりました。

ペリーが日本に来航した理由

浦賀に来た理由に関してはなんとなくでも分かったかと思われます。私的には今の神奈川の方が幕府に国書を渡しやすいから浦賀の方がいいよねみたいな感じには思っています。ただ、ペリーが日本に来たのは開国して欲しいという理由だけではありません。どのような理由があるのか?

1.お兄さんを超えたかったから

先ほども述べたようにペリーには2人のお兄さんがいました。それで、次男の方が優秀でした。なんと、14歳で海軍兵学校に入り、1813年米英戦争のエリー湖の戦いでイギリス艦隊を沈める事なく、すべて拿捕する手柄を立ててるなどの英雄扱いをされていました。それを見たペリーは憧れ心を持ち海軍に入りました。そして、その時のペリーの夢はいつか兄を越えて有名になることでした。ですが、ペリーが24歳の時に大事件が起きたのです。実はそのお兄さんが34歳の若さで感染症により命を落としてしまったそうです。その影響でお兄さんはアメリカの教科書に掲載され、アメリカ人の英雄となってしまいました。ここまで来ると雲泥の差です。

ですが、ペリーは諦めずに着実に成果を作っていきました。ただ、50歳になってもお兄さんを超えた気にはなってませんでした。そんな時に目を向けたのが開国を拒むにほんでした。ペリーはシーボルトが記した著書『日本』等40冊の日本関連資料を読みふけりどうしたらいいかを研究しました。お兄さんを越したいマインドが強いですね。その努力のおかげで200年も鎖国を続けてた日本を開国することができました。

2.捕鯨船の拠点として活用する

フィルモア大統領の国書にはこのように書かれています。

「吾が人民にして、日本沿岸に於て捕鯨に従事するもの甚だ多し。荒天の際には、吾が船舶中の一艘〔いっそう〕が貴国沿岸に於て難破することも屡々〔しばしば〕なり。かかる場合には悉〔ことごと〕く〔中略〕吾が不幸なる人民を親切に遇し、その財産を保護せられんことを願ひまた期待するものなり」(『ペルリ提督日本遠征記』より引用)

これを見ても日本を捕鯨船の拠点にしたかったのかなとうかがえるかと思われます。理由としては石油の採掘が本格化される19世紀後半までは鯨から採れる鯨油はもっとも良質な燃料油と考えていました。それで、日本が開国を求められた時、太平洋北部は世界でも有名な鯨の漁場とみなされていました。これを見ても日本は太平洋北部に位置しますよね?となると日本を開国して拠点にしないと始まらなかったのかと思われます。

3.清との貿易拠点として日本を活用するため

当時のアメリカでは、1848年からはじまったゴールドラッシュの影響で、太平洋沿岸へ大量の移民が入ってきました。その影響でアメリカは西海岸を拠点に、太平洋航路を開拓して清との貿易に取り組もうとしました。ただ、アジアに植民地を持っていなかったアメリカは、清への進出においてイギリス、フランス、オランダなどの国に遅れをとっていました。それで、この遅れを取り戻そうとうことから日本に目をつけました。この状況なら日本を開国させたくなりますよね。

その当時の将軍は?

てか、この騒ぎの時に誰が将軍だったんだよと思いますよね。誰かと言いますと12代将軍の徳川家慶です。誰だよ?マイナーではないかって?そうなんですよね。この人あっけなくいなくなってしまいましたから。しかもペリーが来航した騒動が起きている時に。どういうことかと言いますとペリーが来航してから三週間後というタイミングでの突然死したそうです。なんか、その当時暑さが厳しい年だったようなので、熱中症を患ったのが死へのキッカケになったとも言われています。

え?国書って将軍に渡したのにその後どうするんだよって?本当そうですよね。こんな時に限ってあっという間にいなくなるとは。タイミングとは言えども幕府は弱っているのは確実ですね。

まとめ

私的に調べて面白かったのはお兄さんのネタですね。お兄さんに勝ちたいと言う気持ちがあったからまさかの日本を狙ったとは思ってもなかったです。これはある意味お兄さんに感謝かもしれませんね。おそらく、私的にはその気持ちがあったからペリーは開国できたのかなと思われます。まあ、あの時の幕府は弱ってましたしできるに出来そうですがガチな気持ちでやっていたとは限りませんからね?要はペリー目線で見ればそのマインドがあったから今有名になったのかなとおもわれます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう