尊王攘夷の要因?安政の大獄とは何か?

どうも、りかちゅうです!安政の大獄という事件はご存知ですか?知らないよって?そりゃ、皆んなが詳しいことを知るとは限らないいますもんね。簡単に言いますとその当時の大老の井伊直弼が1858年から1859年にかけて弾圧した事件です。弾圧した理由としては井伊直弼の方針に反対意見を持っている人がいましてその人達を排除するためです。なんでそんなことがあったんだよと思いますよね?それはその当時色々対立があったからです。それくらいもう幕府の組織力が弱っていた証拠ではあるんですけどね。では、どのような経緯があって安政の大獄が起こったのか?この記事にて話したいと思います!

安政の大獄とは何か?

先ほども述べたように安政の大獄とは井伊直弼が主犯の弾圧事件です。ただ、一口で弾圧したとは片付けられる事件でもないです。もし片付けられてたら歴史の教科書に載りません。ですので、安政の大獄とはどのような事件だったのかを簡単に話しますね!

安政の大獄とは、その当時の幕府の大老井伊直弼が幕府に批判的な勢力を排除するために行った大弾圧です。対象者は将軍継嗣問題で井伊直弼と対立していた一橋派や、水戸藩など幕府に批判的な勢力です。将軍継嗣問題についてはこちらを見てください!

江戸の跡継ぎ争い!将軍継嗣問題とは

それで、この弾圧で100人以上が処罰を受けました。具体例としては天皇の親族や大臣、前水戸藩主徳川斉昭や15代徳川将軍の一橋(のちに徳川になります)慶喜などです。また、一橋慶喜を推した橋本左内や倒幕運動のきっかけを作った1人でもある吉田松陰はこの時に斬首されています。

安政の大獄が起きたきっかけ

安政の大獄の概要としてはこんな感じですね。にしても、どうしてそんなにも弾圧したかかったんだよと思いますよね?そんなに憎いのかよって。ということで、次になんで安政の大獄が起きたかについて話しますね。

1.日米修好通商条約締結

1858年、アメリカ総領事のハリスが幕府にアヘン戦争で清国に勝ったイギリスやフランスが強行的に条約を結んでくるかもしれない。だけど、アメリカと通商条約を結べば英仏との仲介役になるよと促しました。こんな発言ではありますがある意味アメリカつごうですね。まあ、アヘン戦争の影響で日本はびびってましたしね。そこら辺の話はこちらに書かれてます!

アヘン戦争とは何かと日本への影響

それで、幕府もこれはヤバいなとはなります。ならない方が事件ですねwwwwwwww。だからこそ、大老の井伊直弼は、天皇の許可も得て考えようと思ったものの幕府の重役の多くがハリスの話を鵜呑みにしたことで条約調印を直弼に迫りました。それ故に井伊直弼は調印せざる得なくなってしまいました。このせいで反対意見の人達のヘイトは溜まっていくことになります。

2.城に凸る

朝廷に無断で条約に調印した噂はすぐに広まりました。その影響で外国人を追払うという思想こと尊王攘夷思想が出てきました。特に御三家のなかでも勤皇派の水戸藩が黙っているわけはありません。そこで、井伊直弼は調印の責任を堀田正睦と松平忠固に押しつけて罷免し代わりに太田資始、間部詮勝、松平乗全を老中にしました。なんで奴だとは思いますねwwwww。ですが、後日水戸藩前藩主の水戸斉昭や水戸藩主の慶篤、尾張藩主徳川慶勝の3人が登城するという形で井伊直弼の前に現れました。ました。俗に言う「押しかけ登城」です。

また、それ以外にもその当時問題になってた将軍継嗣問題についても斉昭の子の一橋慶喜を推挙しました。ですが、ここに関しても次期将軍は紀州徳川家の慶福になりました。それ故に井伊直弼は水戸藩の奴らは邪魔だと思い処罰しました。

3.水戸藩の密勅

井伊直弼の処分に腹を立てた水戸藩の家臣たちは反抗します。とりあえず、京都の公家の協力のもと、孝明天皇の書状を得ようとしました。結果は成功です。その内容はこちらです。

幕府が独断で調印を行ったのは軽率である。幕府役人はどういうつもりか不審だ。これからは御三家や諸大名で評議して、慎重に事に当たるように。

 

また、この同じ内容の書状が幕府にくだされたのは書状を出してから2日後です。これで天皇が井伊直弼達の幕閣よりも、水戸藩を重んじる態度が明らかになりました。

安政の大獄で処刑になった人

安政の大獄では処刑になった人はそれなりにいます。その中でも有名なのはこの2人です。

1.橋本左内

橋本左内は一橋派の人物の人です。ちなみに出身は越前藩で、藩主は安政の大獄初期に処分を受けた松平慶永です。一橋派の人であるからか朝廷での工作活動で暗躍していました。ただ、この件が咎められ安政の大獄ノーマスク時に流罪を宣告されました。ですご、橋本左内はその意見を飲み込まず反論します。自分は藩主の松平慶平に従っただけだと。その当時は藩士は命をかけても藩主を守るという思想があったため藩主に罪を押し付けようとしていると評価を得てしまい死罪になってしまいました。本当のことを言ったの死ぬととは思っていなかったと思われます。

2.吉田松陰

吉田松陰は長州藩にあった松下村塾の塾長です。ちなみに、松下村塾では高杉晋作や桂小五郎など日本に影響を与える人達が勉強していた場所でした。

吉田松陰には二十一回の猛挙というルール違反、破天荒なことをする、すごいことをやるみたいな夢がありました。それ故に吉田松陰は黒船が来航した時に外国に行きたいとペリーに直訴したり、倒幕を唱えたりしていました。なかなかファンタスティックならことをしてきますね。ただ、こんなことをしているのもあって幕府から危険人物とされ、吉田松陰は逮捕されてしまいます。まあ、そうですよね。それで、逮捕された当初は島流しが妥当となっていました。ですが、吉田松陰はあ老中の暗殺計画に乗っかったことで死刑にしてくれと言い始めました。もちろん井伊直弼は大激怒して松陰を処刑するように命令し処刑となりました。29歳でこの世からいなくなってしまいました。

安政の大獄による影響

井伊直弼は安政の大獄で幕府の強化を図ろうとしました。おそらく、彼からしたらなんとしてでも潰したいみたいな気持ちがあったのかもしれませんね。ただ、過激すぎたせいで色々恨みを買いました。まず当たり前ですが幕府と朝廷との関係は悪化しました。そして、多数の有力な人材が排除されたために組織は脆くなります。ただでさえグダグダな幕府がもっとグダグダです。馬鹿ですね。

また、このようなことが積み重なったことから桜田門外の変で井伊直弼は暗殺されました。大老が殺されるって相当ヤバいですよ?家康がいた時ならこんなことないと言っても過言ではないです。それにより、天皇を敬い、外国人を排除する尊王攘夷志士の勢力が強くなっていきました。過激な行動をやりすぎるのはかえって良くないですね。

まとめ

安政の大獄なんて久しぶりの響きでしかないです。受験生の時に勉強したなぁと思いつつこの記事を書いていました。それで、そこから言えることとしては強行作戦をしてもいいことはないのかなということですね。たしかに、あの当時は昔の江戸幕府のように組織力も何もないです。これが盛者必衰ってやつですね。それもあって意見の対立はあったのかと思われます。ですが、それをひとまとめにしたいからっていらない人を排除するのは余計に悪化するはずです。実際に悪化しましたしね。だからこそ、いくら取り締まりたいからって加減を考えた方がいいのかなと思いました。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう