ついに開国!日米和親条約とは何か?

どうも、りかちゅうです!江戸時代は鎖国していた時代ではありましたよね(鎖国とは言えどもスペインやポルトガルとの付き合いはありました)?ですが、260年間鎖国ではありませんでした。理由としてはペリーが来航したことによって日米和親条約を結ばされたからです。この条約によって日本はその当時に力を持っていた国とも交流を持つようになりました。これを見てもその当時の江戸幕府って家康の時よりも弱ってたのは事実ではあります。てか、日米和親条約ってどんな内容なんだよって?まあ、落ち着いてください。今からこの記事にて詳しく話したいと思います!

日米和親条約とは何か?

日米和親条約については日本史で習ったとは思いますがどんな内容かについては忘れてしまったなんて方はいるかと思われます。ぶっちゃけ、ほとんど覚えてないです。ということで、おさらいとして日米和親条約の概要について話しますね。日米和親条約とは1854年にアメリカと結んだ条約です(勝手に他の国も追加されたんですけどねwwwww)。先ほども述べたようにそれまでの日本は限られた国しか外交していない形で鎖国な感じでした。そんな時に1853年、アメリカからペリー率いる艦隊がやってきて開国と通商を求めたことから日本は1854年に日米和親条約を締結しました。条文は12条です。

ただ、日米和親条約は簡単に言えば開港のみで通商の話は条約には書かれてないです。のちの日米修好通商条約にて貿易関係のことが締結されます。

日米和親条約が結ばれた背景

以上が日米和親条約の概要です。では、どついう背景で日米和親条約は結ばれたのか?

1.ペリーの来航

日米和親条約が1853年、ペリーが浦賀に凸ってきました。ノーアポですよ?ノーアポ?しかも、なんと4隻の黒船で凸りました!その際にペリーは日本に対して開国と通商を行うように求めてきました。鎖国をしていた日本からしたらマジかよって感じですよね。しかも鎖国の目的は海外に乗っ取られたくないからという願望もありましたからね?また、ペリーは中国と通商をしたいからや捕鯨をしたかったからなどの理由で日本に来航したそうです。

※ペリーが来航した理由についての詳細はこちらの記事に書かれています。

なぜペリーは黒船で日本に来航したのか?

2.2度目の来航

ペリーに関しては1953年に来航して日本にして欲しいことだけを言って去りました。理由としては幕府側がなんとか対応したからだそうです。世間的にはやばいぞみたいになってはいたもののなんとか対応は出来たのは意外でした。ただ、清国がアヘン戦争でイギリスに負けたことで強硬手段は使わなかったんですけどね。

ただ、ペリーは9ヶ月後にやってきました。なんでその時期かと言いますと実はペリーが日本から一旦去った直後に第12代将軍徳川家慶が急死したからです。おそらく、ペリーは将軍が死んでドタバタ状態だから狙おうとなったのかと思われます。しかも、2度目のペリーは強気です。なんと幕府の脅しも兼ねて江戸湾に入港しました。これでもう幕府側はお手上げして1ヶ月の間協議が行われて日米和親条約が締結されました。

日米和親条約の内容

ペリーが来航してから1年も経たずに日米修好通商条約が結ばれてしまったのは事実です。では、肝心たる条約の内容はどのようなものなのか気になりますよね?一応条文としては12条ありますが全部は長くなってしまうのど言えません(ググれば出てきます)。ですので、メインの内容を話したいと思います!

1.アメリカ船が求めてきたら食料や燃料を補給する

これは第2条に書かれています。後ほど話しますが日米和親条約によって開港したのは下田と函館です。それで、アメリカも日本に来るにあたって燃料や食料は必要になってきます。その際に食料補給して欲しいという内容ですね。また、それ以外にも金銀の購買や物々交換を許すことなども書かれています。その影響で安い銀が日本に流れてしまいました。

2.開港地は下田と函館

交渉の結果下田と函館が開港地になりました。ぶっちゃけた話、ペリーは浦賀などの5つの港を開くように要求します。横浜や神戸も候補ではあったでしょうね?ただ、それでは幕府側は困るので下田と函館だけとなりました。なんとか幕府も頑張りましたね。だからってアメリカが優位な感じではあることには変わりないんですけどね。

3.アメリカの遭難船を見つけたら助ける

第3条に書かれている内容です。やはり、海でやってくるとなると波が荒れている時などは遭難することなんてあるあるです。しかも、今の時代よりもナビなんてない時代からこそ遭難のリスクなどはあることでしょう。そんな時日本はアメリカの船を助けないといけないという内容です。内容としてはこんな感じですね。

アメリカの船が日本近海で嵐に遭い船が壊れたりした場合は日本がその船の乗組員の安全を確保してアメリカに引き渡し、アメリカはその時に被害が及んでもその際の賠償金は請求しないこと。

まあ、対等にするためにアメリカは賠償金は請求しないみたいな感じなのかもしれませんね?

4.日本がアメリカに片務最恵国待遇を与える?

日米和親条約の第9条にこのような内容が書かれています。

日本はアメリカに対して片務的最恵国待遇を与えること。

片務的最恵国待遇?何それって感じですよね?これはかなり重要な話です。最恵国待遇ともし他の国といい条件で条約を結んだらアメリカにも同じ条件の条約を結ばなければいけないということです。まあ、これ両国ともにそうならいいんですよ。ですが、片務的であるためアメリカにしか通用しないんです。要するに、アメリカのことを一番に見ろということになります。このような条文を見ても不平等な条約であるのは確かですね。

5.ロシア・イギリス・オランダも同じ内容で締結

日米和親条約を結んだ後に他国からも同じような条約を要求してきました。その代表例がロシア、イギリス、オランダです。どの国もその当時は強豪国でした。それで、この3カ国とは日米和親条約と同等な内容で条約を締結しました。なんという便乗なんでしょうって感じですねwwwww。

※ロシアに関しては日国境問題を抱えていたため日露和親条約には国境に関する話が書かれています。

 

日米和親条約を結んだ後の日本

その後なんですが1858年に日米修好通商条約を結ぶことになります。理由としては日米和親条約では貿易関係はどうにも出来なかったからです。ここら辺は幕府はなんとかがんばりました。あとは、ペリーが来航して開国することになってからは日本は近代化が進むようになりました。やはり海外の技術を取り入れられる環境になったことはデメリットだけではないのかもしれませんね。

まとめ

たしかに、日本の立場は低くなってはいるとは思います。片務的最恵国待遇がある時点でもうお見通しですしその当時はアメリカの方が技術は進んでいましたからね?ただ、もし日本が他の国よりも技術などが遅れた状況でしたら今のような感じにはなっていなかったはずです。それくらい鎖国をしているというのは情報が消えるということでもあります。というか、戦国時代の時は日本の方が優れてたのにいつのまに落ちぶれたんだよと思っちゃいますが←。

まあ、要するに、その当時からしたら日本の立場は低かったとしてもなんとか上りつめる事ができたからよかったとは思っているということです。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました!

りかちゅう