戦国時代のきっかけ!応仁の乱とは何か?

どうも、りかちゅうです!戦国時代という時代があったというのは歴史から見ても明らかに分かるかと思われます。そりゃ戦国武将という言葉がありますからね。ですが、なんで起きたかというと曖昧だなぁという人もいるかと思われます。前置きですので簡単に言いますと応仁の乱が起きたことで戦国時代が起きました。説的には他の戦いで戦国時代が始まったとは言われてますが規模的には応仁の乱で戦国時代が本格的に幕開けしたと言っても過言ではないです。ということでこの記事では戦国時代のきっかけとなった応仁の乱について話したいと思います!

応仁の乱って何?

歴史の授業でも応仁の乱って聞いたことあるし教科書にも書かれている。だけど応仁の乱ってなんだっけとなっている方もいるかと思われます。ですので、まずは応仁の乱とはどういうものかについて話したいと思います!

応仁の乱とは1467年に起きた争いで1477年と10年ほどグダグダ続いた戦争です。てか、どうしてこんなにグダグタ続いたんだよってなりますよね。それにはとあるきっかけがあります。それは後継ぎ問題です。当時の将軍こと足利8代将軍・足利義政には子供がいませんでした。

そこで、弟の弟の義視に将軍職を譲ろうとしたんです。ですが、そんな時にタイミング悪く義政には息子の義尚が生まれてしまい、後継ぎが義視派と義尚派で大きく割れて応仁の乱が発生してしまいました。ちなみにどのような構図での争いかと言いますと義就・宗全・義尚の西軍側と、政長・勝元・義視の東軍側の対決ですね。結果としてはどちらが勝ったとかはなく京都は焼け野原になりました。そして元々弱まっていた室町幕府の権威はどんどん弱くなりました。後継ぎごときでここまでバトルするって相当ですね。

応仁の乱が起きた理由

先ほどもあったように後継ぎごときで10年も戦うってなんかある意味すごいですよね。たしかに、後継ぎはあの時代大事ですよ。ですが、どうしてここまでバトルするんだよって感じですよね。たしかに後継ぎが決まってから子供が生まれたケースはありますよ。それが豊臣家です。だからって豊臣家に関してはそこまでバトルしてません。となると室町幕府側に理由があるということになります。一体どのような理由があったのか?

1.義政が優柔不断

応仁の乱の発端となった人物なのは間違いなく義政ですね。優柔不断な性格のせいで将軍という立場でありながら、早い段階であらゆる問題への解決策を打ちませんでした。豊臣家に関しては家庭内トラブルに関してはドロドロではありましたが優柔不断なかんじではなかったのもあり応仁の乱のようなバトルにはなりました。やはりトップの決断力は大事ですね。

2.山名と細川の争いが混ざってた

幼少期から義政は政治に絶望していたのもあって天皇から政治をサボるなと叱責されていました。それもあって義政は早くから後継者を決めて隠居しようとしていました。将軍としてなんて奴だって感じですね。そんな時、当時20歳そこそこの義政には子供はいなかったんですが、弟の義視を後継ぎにしようとしてましたが、妻の妻の富子が妊娠し、実子の義尚が生まれてしまいました。

それもあって義視は謀反の疑いをかけられ命の危機を感じていだこともあり折よく兵を率いて京に駐在していた細川勝元に支援をお願いし、これに加担するのです。本当なら山名・細川にとって後継者争いは主要な問題ではなかったのですが、こうした利害関係がさらにことを複雑化させていきます。

3.山名と細川が仲悪かった

義政の優柔不断も影響していますが、有力守護である山名宗全と細川勝元の関係も応仁の乱のきっかけでもありました。宗全と勝元は元々は協力しあう仲ではあったものの価値観のせいで犬猿の仲になっていました。それ故に日々バトルするような関係になっていました。このようなことから応仁の乱を起こすくらいに衝突してしまいました。

応仁の乱の結果

応仁の乱って勝ち負け結局どっちが勝ったんだよってなりますよね?結論から言います。どっちが勝ったとかありません。引き分けですね。10年続けてマジかよってレベルですね。ちなみに10年喧嘩して和解して終わった感じです。人様の迷惑かけて何をしてるんだって感じですね。

応仁の乱以降の日本

応仁の乱を10年を続けたことによってその当時の日本に関しては色々はちゃめちゃ状態でした。ではどのような点で悪影響を及ぼしたのか?

1.皇族や公家、寺社の領地が奪われる

京都はボロボロなのもあり、どさくさに紛れて皇族や公家、あるいは寺社の領地を奪うなんてことが起こりました。もちろん、奪われた人達は生活に困窮しました。それもあって地方の武士にかくまってもらおうという考えから地方に下っていく公家も増えていきました。

2.一般の人でも辛い

公家の皆さんも生活に苦しんでいるのですからいわゆる一般庶民の人達なんてもっと辛いです。そりゃ、グダグタな戦いが10年も続いたのもあって京都の人は激減したのはもちろんのこと公家屋敷や歴史ある寺社もほぼほぼ焼けてしまいました。それもあって史書、物語、歌集の類などの貴重な文物も多く失われてしまいました。これは文化の崩壊です。一般庶民にとっては大打撃です。

また、兵の規律も乱れに乱れていたため、京都に住んでいる人の多くが食料などの略奪や物資不足での影響で身体が弱り疫病で命を落としたといいます。いわゆる貧困みたいな感じですね。

3.戦国時代が始まる

応仁の乱の結果、京都はボロボロとなったのはもちろんのこと将軍の権威はどん底に落ちたことで幕府の命令に関しては京都周辺のみとなりました。それもあって地方の荘園は京都の荘園領主に税を納めなくなり、公家たちは衰えました。その影響で国人・地侍とよばれる人達が土一揆が頻繁に起こり、足軽こような下の者が上を倒す「下剋上」の世の中になり、時代は戦国へと突入していきます。要は幕府の力が弱くなって下の人間が這い上がれるようになったということですね。ちなみに徳川家の前身である三河の松平氏も、この国人層でした。

まとめ

室町幕府というものは15代続いていました。ですが、室町幕府の中に戦国時代があったということを考えると組織としては乱れていたのは事実ですね。要は室町幕府として基盤になっていたのは最初のうちで応仁の乱の頃には誰かしらが下克上できる時代であるくらいに弱まっていたということです。今の時代で言うなら会社員がしれっと独立して競争している感じですね。今の時代に置き換えても明らかに室町幕府の勢力は弱まっていますね。

しかも、後継ぎの子供が生まれなかったと思いきや生まれてしまったバトルですから尚更組織が弱まる瞬間ですね。昔の時代ほど後継ぎが誰になるかが命ですから。それで、何が言いたいかと言うと政を行うポジティブが崩壊したらボイコットが起こり、秩序が乱れるということです。そうでないと1615年まで続きません。今の時代でもありえるかと思われます。ですので、政を行う立場に関しては組織力を強めていかないと国として乱れていくかと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう