戦国未曾有の大合戦!関ヶ原の戦いとは

どうも、りかちゅうです!戦国時代の大規模な戦いでもある関ヶ原のはご存知ですよね?日本史の教科書でも関ヶ原の戦いで家康が三成に勝ったことがきっかけで江戸幕府が始まっていくみたいに書かれていることでしょう。まあ、結果論としてはそうですね。ですが、関ヶ原の戦いに関してはこんな一言で表現できないくらいのドラマがあるんですよ。その要因の1つを言うならば規模の大きさですね。他にももちろんあります。ということでこの記事では関ヶ原の戦いについて話したいと思います!

関ヶ原の戦いとは?

歴史の教科書にも関ヶ原の戦いということに関しては書かれていますがいつどこで起きたか分からない人もいるかと思われます。ですので、まずは関ヶ原の戦いの概要について話しますね。

関ヶ原の戦いとは1600年9月15日に現在の岐阜県関ヶ原町こと美濃国不破郡を主戦場として行われた野戦です。どうして関ヶ原の戦いかと言いますとそれまで色々な戦いがあったんですが最終的に西軍と東軍がぶつかって戦い、決着をつけたからです。ちなみに関ヶ原における関ヶ原における決戦を中心に日本全国で戦闘が行われていることから関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれています。

なんで未曾有なの?

タイトルにも戦国未曾有の大合戦と書かれていますがなんでそうなのと思う方もいるかと思われます。理由としては規模ですね。関ヶ原の戦いに関しては西軍と東軍合わせて15万人の兵力でした。内訳としては西軍が8万人、東軍が7万人ですね。人数に関しては当日の動きの影響で変更はあるんですが9月15日まではこの内訳です。

戦国時代だから戦いなんて普通だろと思いますよね?ですが、ここまでの規模の戦いは戦国時代だけで見るなら関ヶ原の戦いだけです。小田原攻めもありますがあれは北条家を降伏させるための戦いなのでまた質が違います。おそらく、ここまでの規模は戦国時代が始まるきっかけでもある応仁の乱以来ですね。それくらい規模が大きいということは家関係が大きく左右される戦いであったと言っても過言ではありません。

関ヶ原の戦いが起きるまでの経緯

先ほども述べたように関ヶ原の戦いに関しては9月15日に起きたものです。ですが、いきなり起きたものではありません。きちんと経緯があります。ですので、まずは関ヶ原の戦いが起きるまでの経緯に関して話したいと思います!

1.秀吉の死

1598年、秀吉がいなくなってしまいました。ですが、跡取りでもある秀頼はわずか6歳でした。これでは跡取りとしての仕事は出来ないですよね?そこで、秀吉は自分がいなくなっても政がはかれるように五大老制度を作りました。五大老のメンバーは豊臣政権の中でも勢力の強い徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元・小早川隆景(小早川隆景の死後は上杉景勝)の五人でそのメンバーが秀頼のサポートをするというルールです。

ただ、秀吉がいなくなってからは家康は自分の都合のいいように動こうとします。それもあって前田利家とはバトルをするんですけどね。

2.武断派と文治派の対立

この対立はある意味家康得なネタでもあります。この対立の要因は三成です。西軍の大将の一人の三成は五奉行の一人でした。仕事もバリバリできます。じゃないと秀吉にスカウトされないですからね。ただ性格が融通が利かない点もあり諸大名には嫌われていました。特に加藤清正、福島政則などの武断派と言われる人には相当嫌われてましたね。

このような状況の中、家康は秀吉の遺言である勝手に婚約を結ばないという約束を破りました。それを見た前田利家はこれに対して抗議し家康と対立バトルしたものの前田利家は1599年に亡くなってしまいます。家康のストッパーとなるくらいの権力の人がいなくなったことは三成は不利です。三成は秀吉側だからこそ。それもあって三成を襲撃しようという計画がありました。もちろん武断派の計画です。その際に家康は止めましたが都合のいいようにするために三成を蟄居させました。

3.上杉討伐

前田家の次は上杉家でした。上杉家に対し謀反の疑いがあるといちゃもんをつけ始めます。内容は会津に引きあげ、築城や武備に力を入れはじめることです。確かに上杉家は秀吉がいなくなってから独立したいという感じはありました。ただ、上杉家からしたら謙信公から引き継いだ義の心があるため家康の悪行には気に食わなかったため上杉家は宣戦布告しました。宣戦布告は家康を批判した直江状ですね。本当はなかった説はあるんですけどね。これを見た家康は会津征伐を決意しました。

これを見た三成は豊臣家の政ができてない。ありえないとなり蟄居の身ではあるものの再び大阪城に戻りました。

関ヶ原の戦いが勃発した時の流れ

関ヶ原の戦いは9月15日ではあるものの実はその前から別の戦いや各々の軍勢が動いていたのは事実です。では関ヶ原の戦いを含めて戦いが勃発した時どのような感じだったのか?

1.小山評定と伏見城の戦い

家康が会津征伐を始めると大阪では家康を倒そうという話になりました。これは家康も知っていました。理由は三成を監視していたからです。

三成は大坂で挙兵し、宇喜多秀家、小西行長などと共に家康が留守の間に伏見城を攻めます。結果は伏見城は落城し、鳥居元忠が討死します。鳥居元忠は三成を監視していたひとです。それを聞いた家康は会津征伐よりも三成を討伐する事を決意します。家康は会津から岐阜へ、三成は近畿から岐阜へと向かうと向かうということですね。

2.毛利軍などが動かない西軍

関ヶ原の戦いの戦いは9月15日午前8時に始まりました。西軍は三成、大谷吉継、宇喜多秀家など。東軍は家康、加藤清正、福島政則、伊達政宗などですね。はじめのうちは西軍が優勢でした。秀吉が大いに評価していた宇喜多秀家がいただけあって。ですが、毛利軍と小早川軍が動きません。それもあってだんだんと東軍が優勢になってきます。そりゃチームワークもないですからね。動く予定のある人が動き出さないなんて。ちなみに毛利軍は東軍が万が一勝った時の保険として動かなかったそうです。

3.小早川の裏切り

予定がズレズレな影響で西軍はピンチです。ですが、最大のピンチが襲い掛かります。それは小早川の裏切りです。小早川が裏切ったことによって西軍は包囲をされる側になってしまいました。西軍は大谷吉継が討死するなど壊滅的な被害を受けました。ただ大谷吉継は小早川は裏切るかもと思ってたんですよ。ですが、他の軍勢まで裏切るとは予測してなかったのもあり撃沈です。よって東軍の勝利です。ちなみに戦いは6時間で終わりました。

関ヶ原の戦い以後どうだったのか?

家康もはじめのうちは勝てるかどうかわからない状況ではありましたが西軍のゴダゴダさの影響もあって家康は勝ちました。その後はもちろん三成を処刑にするなり西軍には減封や流罪にするなどの対処をしました。その後はもちろん、徳川家が有利なように事を動かしましたけどね。豊臣家と共存とか言いつつ徳川家がいい方向に持っていくようにしましたし。要は関ヶ原の戦いで勝てたから家康は天下取れたもんですね。

天下分け目とは限らない

関ヶ原の戦いは天下分け目の戦いとは言われています。確かに、結果論としては家康が江戸幕府を開くきっかけにもなったことから天下分け目ではあります。ですが、戦いの渦中に関しては天下分け目とは限らない点もあります。まず、家康に関しては上杉家の行動を取り締まるために挙兵をしました。家康には天下取るという下心はあったかと思いますが目的は上杉家です。

また、三成が蟄居されていたものの動き出したのは徳川家と上杉家がバトルしている間に豊臣家の仕事を放置しているのはどういうことだという点と思い蟄居はしているものの抜け出したという流れです。三成側からしたら豊臣家を存続させたいと思いますからね。このようなことを踏まえると100%天下分け目の戦いであったとは限らないということですね。まあ、ここまで軍勢がいれば色んな要因が入り混じっていることでしょう。

まとめ

私も大河ドラマ見るまでは関ヶ原の戦いがどのようなものかは詳しくは知りませんでした。ですが、中学の頃に「天地人」を見て関ヶ原の戦いが家康が勝ったのは三成の人望のなさかと思いましたね。もし、三成が人をまとめられるくらいの人望があればまた変わってきたことでしょう。家康につく人間よりも三成につくはずです。ですが、嫌われ者だけあって三成につくものが少ないのもあって家康の勝利に終わりました。

それで、何が言いたいかと言いますと教科書では分からなかったことが分かれたということですね。あとは家康の下心は見え見えと。そう考えると戦ってドラマですよね。皆さんにもこの記事を通して戦のドラマについて興味持ってくれたら嬉しいです!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう