北条の美男子!北条時房とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!源氏にはイケメンがいますね。義仲と義経です。対して北条家も負けてないです。路線的にはイケメンではないです。美男子です。今でいう可愛い系の男の子と思えばいいんですかね?しかも、その人の特技は蹴鞠と貴族らしいんです。とりあえず、名前を教えろって?すいません。忘れていました。北条時房です。鎌倉殿の主人公こと義時との関係は弟ではあるものの、腹違いの兄弟です。また、時房は義時の息子こと泰時と仕事することが多かったです。このように、マイナーではあるものの、北条家にとってはメインな人でした。ですので、この記事にて時房のことについて話しますね!

北条時房のプロフィール

まずは北条時房とはどういう人なのかを簡単に知るためにもプロフィールを作りました。肖像画はなかったので鎌倉殿で時房役をやった瀬戸くんの写真を載せますね!

名前 北条時房

出身地 伊豆

生年月日 1175年

没年 1240年2月18日

備考

北条時政の子供です。三男にあたるそうです。ですが、義時や政子とは異母兄弟です。

北条時房の人生

以上が時房のプロフィールです。異母兄弟ではあるものの鎌倉殿の主人公こと義時とは身内であるのは事実です。では、時房はどのような人生を歩んだのか?

1.時政の子として生まれる

時房は1175年に伊豆の豪族の北条時政の3男として生まれました。ただ、先ほども述べたような政子、義時とは異母兄弟です。そして、時房の母についての史料はなく不明だそうです。

時が経って1189年4月18日に時房は元服しました。その際に頼朝の命で三浦義連が元服時に加冠を行う人となり名前を時連と名乗ります。そして、1199年に頼朝がいなくなると嫡男である源頼家が2代目鎌倉幕府将軍となりました。それで、時房は蹴鞠が上手かったことから側近として仕え1202年に時房と改名します。改名の理由は時連の「連」は銭の単位である「貫」を連想し印象が悪いと指摘されたからです。源頼家が改名を提案したそうです。

2.比企能員の変で源頼家を裏切る

1203年に比企能員の変が勃発しました。比企能員は頼家の乳母父であり娘が源頼家の側室でありました。また、比企家は頼朝が島流しになっていた頃を支えた家でありかつ将軍家の外戚として力を強めていました。これに危機感を持ったのが政子と時政でした。それ故に比企能員の変により比企一族は滅亡させられました。そして、源頼家は鎌倉を追放されました。その際に時房は源頼家の側近であったのに、追放された頼家は見捨て北条氏一門として権力を伸ばしていきます。

3.畠山重忠の乱

3代将軍・源実朝の代になってから1205年6月22日武蔵国二俣川(今でいう神奈川県横浜市旭区)に有力御家人であった畠山重忠が義時率いる大軍によって滅ぼされます。理由は時政の奥さんこと牧の方が畠山重忠は謀反を企てていると報告したことから時政が攻撃しようとしました。時房も義時も畠山重忠の忠義を訴え抗議しました。ですが、上手くいかず仕方なく出陣します。人望厚かった畠山重忠までも強引に滅ぼさせたことで時政と牧の方に対する不満が募ります。それ故に大半の人に政子や義時らに味方し時政と牧の方は追放され隠居処分となりました。

4.武蔵守になる

時政失脚後に時房は遠江守に任ぜられます。そしてその後に駿河守、1210年1月14日には武蔵守になります。それで、義時が相模守であることから、北条氏は幕府と関係の深い武蔵国・相模国をを掌握したことになりました。その後も上総国の荘園を拝領します。さらに、源実朝が1219年に暗殺されるとのちの摂家将軍となる藤原頼経を京から連れて鎌倉へ帰還します。

5.初代六波羅探題南方となる

1221年5月、承久の乱で北条方が勝利し後鳥羽上皇が隠岐島に流されると、時房・泰時はそのまま京に止まり、時房は初代の六波羅探題南方となりました。泰時は北方です。ちなみに、六波羅探題とは西国の御家人を統括と朝廷を監視するための機関です。時房はそれ以降、幕府の出先機関として朝廷と西国勢力が幕府に反逆しないよう抑えることに努めました。

6.政所の別当となる

1224年に義時がいなくなると6月28日には泰時が執権になり政子が時房を後見役に任命しました。役職名は執権を補佐する連署です。そして、1225年には政子もいなくなりそれ以降は執権である泰時と協力しながら政務をしました。その際に時房が京都から連れてきた源頼経が鎌倉幕府4代将軍に就任しました。それ故に貞1232年に従三位に任ぜられ政所を時房は泰時とともに政所別当に就任しました。ただ、泰時は筆頭の別当を時房に譲ったため政所のトップは時房でした。そして、1240年に時房はいなくなりました。亡くなった時連署は空席でした。ですが、1247年に泰時の異母弟にあたる重時が就任します。

北条泰時との関係性は

義時の息子であり時房の甥である泰時とは承久の乱以降さまざまな場面で協力し合っていました。ですが確執もありました。具体的には泰時が今後は賞罰を自分ひとりで決めると宣言すると時房は突如として病をになったことで頼経の元服を欠席しています。一方、泰時は時房がいなくなったら時房の長男・時盛を排除し娘こ婿である朝直を重用することで時房流を分裂させ泰時流を安定化させました。また、その反対に泰時が病に伏せっているとき時房が同僚を集めて酒宴を開いていたというものがあります。もちろん、誰かしらが泰時が病なのになぜ酒宴をするのかとしつもんしますよ?その際に時房は「泰時が生きているからこそ酒宴ができるのだ。亡くなってしまったら酒宴も開けない」言ったそうです。

このようなことを踏まえると、時房と泰時との関係は仕事で協力したことはあっても親密さはないです。互いにやや緊張感のある関係ではありました。ただ、どこかしらに信頼関係があったと思われます。もし信頼関係がなかったら時房は泰時が病から回復すると信じて酒宴を開けくわけないです。そして、泰時は自分が病気の間に時房が酒宴をしていても咎めることもなかったです。なんか、敵対しているようでしていないような感じで複雑な関係ですね。

北条時房の美男子エピソード

タイトル通り北条の美男子だったそうです。それなのに、肖像画が見つからないのが残念です。ただ、美男子エピソードがあります。それは蹴鞠です。時房は容姿にも所作にも優れていたそうです。それもあって、源頼家・源実朝の2代にわたって和歌や蹴鞠の相手を務めたそうです。また、後鳥羽上皇の前でも蹴鞠を披露したそうです。時期的には1218年です。政子とともに上洛した際、後鳥羽上皇の蹴鞠の会に参加したらしいです。その際に上皇に気に入られて出仕するよう命じられました。要するに、京都で活動していたこともあるということですね。

このエピソードを書いて時房は武士というよりも貴族の感じの方が強いなと思いました。きっと見かけも美男子って言われていましたし武士って感じではないのかもしれませんね。

まとめ

先ほども述べたように時房はマイナーですね。マイナーだから肖像画も見つからなかったわけですし。ですが、北条家を影で支えていたのは事実です。また、事実上政務関係でトップにもなっていますしね。きっと北条家内でも感謝されていたかと思われます。また、泰時と政治的パートナーであり、確執も多少はあったものの信頼関係で結ばれていたのかと思われます。だからこそ、鎌倉殿を機に知ってくれる人が増えると嬉しいと思っています。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう