長期戦!石山本願寺と信長が戦った理由

どうも、りかちゅうです!石山本願寺と織田家が戦った石山合戦ってどれくらいかかったと思いますか?なんと11年です。これは戦国時代が始まったきっかけでもある応仁の乱と同じくらいの長さですね。まあ、11年とは言えども停戦の時はありましたよ?だからってここまで睨み合いっ子しているって何があったんだよってレベルですよね。理由を簡単に説明すると信長自身、石山本願寺を抑え込むことで政治への口出しをさせないようにしたかったからです。えっ?寺なのにそんなに力あったのって?そうなんですよ。ということでこの記事では石山合戦について話したいと思います!

石山本願寺とは?

てか、石山本願寺ってどんな寺だよって感じですよね?信長とはどんな人は知っている人は多くても石山本願寺のこと詳しく知ってる人なんて少ないかと思われますし。ですので、軽く石山本願寺について説明したいと思います!

浄土真宗の派閥の1つ

石山本願寺とは何かというと浄土真宗の派閥の1つです。浄土真宗とは親鸞という人が鎌倉時代に広めた宗派です。ちなみに、浄土真宗は一向宗とも呼ばれていたそうです。厳密に言えば2つは全く別物ではありますけどね。それで、親鸞は浄土宗という宗派の開祖法然上人」の弟子でした。浄土宗とは「南無阿弥陀仏と、口で唱えるだけで、極楽へ行ける」という教え広めています。ですが、親鸞はそれだけはなく法然上人の教え踏まえてさらに発展させます。どのような教えと言いますとこのような教えです。

「そもそも阿弥陀如来さまは、頼まれるまでもなく、人々を極楽浄土へ導こうとしておられる。

そのため、【南無阿弥陀仏】と口にするまでもない。

ただ、心のなかで、阿弥陀如来さまを信じる、または南無阿弥陀仏と心で念じるだけで、極楽浄土へ行ける」

要するに、心の中で信じることも必要ということですね。ですが、石山本願寺はその教えを教えるだけではありませんでした。

なぜ規模が大きくなったか?

石山本願寺は浄土真宗の教えを広めるだけじゃないってどういうことだよって?実は浄土真宗の教えが民衆から圧倒的に支持されることとなって来ました。それもあって、民衆からの「お布施」や「お賽銭」などを貰い、石山本願寺の収入は、莫大なものになりました。それ故に石山本願寺は、圧倒的な財力で、武士たちとの戦いもするようになりました。ちなみに石山合戦の時は朝倉家や六角家などが石山本願寺との親交がありました。

ただ、注意しておくべき点としては「浄土真宗」すべてが信長と戦ったわけではなく、平和に仏教の活動をしていた人もきちんといます。

戦った理由

以上が石山本願寺の概要です。では、なぜ信長は石山本願寺と戦ったのか?簡単に言えば信長が石山本願寺の力を弱めようと、数々の無茶振りを要求し続けたからです。その当時、石山本願寺は戦国時代で最大の宗教勢力であり武装勢力でした。実はこの当時、武家と宗教でバトルなんて普通にありました。それ故に武士たちも石山本願寺とは同盟を締結するなどをして敵に回さないように慎重な態度を取っていました。ですが、信長はそうはしませんでした。

なんと、信長は勢力を落とすために石山本願寺に現在の価値で数億円のお金を支払うようにといいました。それで、その当時のトップだった本願寺顕如は信長に払っています。そこまで金があると強いですね。だからって、信長は満足しませんでした。信長は、難攻不落であったた交通の要衝「石山」を出ていけまでと言います。ですが、本願寺顕如」は拒絶したので1570年に開戦しました。

石山合戦の経緯

以上が戦いまでの流れです。では石山合戦はどのような経緯だったのか?

1.信長苦戦

実は信長は色々苦しめられていました。なぜなら、本願寺派の信徒たちが各地で起こした「一向一揆」があったからです。三重の信徒たちが起こした長島一向一揆に始まり、近江一向一揆、越前一向一揆、加賀一向一揆と、一向一揆パラダイスでした。特に、長島一向一揆は、信長が鎮圧するのに4年もかかったそうです。

2.兵糧攻めをする

一向一揆パラダイスだったもののなんとか鎮圧し、本格的な攻撃を開始したのは1576年のことでした。その際の難題は、四方を川で囲まれた天然の要塞である難攻不落の石山本願寺の処理です。とりあえず、信長は兵糧攻めをしました。兵糧攻めはとは石山本願寺に籠城する敵の食料を断つことです。なぜそんなことをしたのか?それはそ運搬経路を断つことで食料が届かず降参させることができるからです。

3.毛利の水軍とのバトル

信長の兵糧攻めに対して顕如側についていた強力な水軍をもつ毛利輝元でした。輝元は自慢の水軍、700~800隻を送り込み、待ち構えていた織田の水軍300隻を追い払ったことで石山本願寺に食料を運び入れることができました。

ですが、信長は諦めません。なんと、軍艦を登場させました。どんな軍艦かと言いますと長さ約22m、幅約13mの大型船を鉄板で覆い、大砲を装備した大きな軍艦です。これには毛利側も歯が立たなかったのもあり信長は勝つことができました。

石山本願寺が降伏した理由

まあ、色々ありましたが結末としては石山本願寺側が降伏しました。経緯としては本願寺顕如信長と講和をするという形で戦争をやめることにしました。事実上信長側の勝ちですね。なぜなら石山本願寺を退去する約束で和睦しているからです。だからって、なんで降伏したんだよって?理由は簡単で各地で戦っていた本願寺の勢力が、ことごとく織田信長の軍団に負けていったからです。信長は各地の商業を発展させることで、莫大な資金を手に入れていました。商売能力があるのが信長ですからね。それで、信長はその莫大な資金で、強力な軍団を組織し、「長篠の戦い」でに勝ち、武田勝頼「木津川口の戦い」で毛利輝元に勝ちました。要するに石山本願寺の味方だった勢力が弱くなっていったということです。

これは石山本願寺にとってはピンチです!とりあえず難攻不落の要塞へ立てこもり、長期間の籠城しました。籠城中は毛利軍や村上水軍から、食料などの物資を補給していたものの、「第二次木津川口の戦い」村上水軍が負けてしまいました。となると、海路での食料補給を遮断されるのは確実です。それ故に石山本願寺は、ついに信長に降伏しました。要するに、籠城戦が耐えられなくなって石山本願寺を退去して、降伏するしかなかった感じですね。

まとめ

ここ最近読んでいる本で信長時代は宗教関係の人達も勢力を持っていたということを知りました。マジかよとは思いましたけどね。一見は。なぜなら、見かけ的には武士の方が勢力があるなというイメージがあるからです。ですが、実際はイメージとは違ってあの信長ですら苦戦をする相手でありました。信長なんて無茶振りな発言してでも潰したい感じでしたし。これを見ても宗教や寺社は侮れないということが分かるかと思われます。それもあって秀吉は刀狩をして勢力を弱めたんですけどね。

てか、何が言いたいんだよって?言いたいこととしては宗教関係の勢力がその当時強かったというのは盲点だということです。理由としては結果的に信長が勝ったのもあり武士の方が強くなりました。ですが、もし武家側が負けたら寺社や宗教関係の方が強くなります。ですので、その当時の宗教はなめんなと思ってください!以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう