貧乏公方!足利義昭の人生とは?

どうも、りかちゅうです!室町幕府15代将軍の名前はご存知ですか?誰だよって?いやいや、教科書にもこの記事のタイトルにも書かれていますよ。足利義昭です。なんでいきなりこの人の話をしているのかと言いますと彼は室町幕府の最後の将軍でもあり、波瀾万丈な人生を歩んだ人でもあるからです。要するに、ネタにするに適しているけれど学校の教科書には少ししか載っていないからこの話をしているということです。ちなみに教科書には「信長に追放された」しか書かれていません。では、一体足利義昭はどのような人生を歩んでいたのか?この記事にて話したいと思います!

足利義昭のプロフィール

まず、足利義昭ってどんな人なんだよって感じですよね。教科書にはほんの少ししか登場していないからこそ。ですので、足利義昭ついてのプロフィールを作りました!

名前 足利義昭

生年月日 1537年12月5日

出身地 京都

没年 1597年10月19日

ニックネーム 貧乏公方

補足 

女性には対して興味を持っていなかったらしいです。そのため、本妻こと正室はいませんでした。

足利義昭の人生

以上が足利義昭のプロフィールです。では、一体どんな人生を歩んでいたのか?

1.足利義昭誕生!

足利義昭は1537年に室町幕府第12代将軍・足利義晴の子として生まれました。ですが、後継は足利義昭のお兄さんでもある足利義輝でした。そのため、6歳には出家し、興福寺に入覚慶(かくけい)と名乗るようになりました。にしても、跡継ぎじゃないからってなんで出家するんだよって?実は足利家のしきたりなんです。どんなしきたりかと言いますと嫡男以外の男子はみな出家して仏門に入ることとなっていたそうです。理由は後継者争いを未然に防ぐためだったそうです。また、将軍家の血筋を入れることで、寺社との関係を強めるる考えもありました。それ故に足利義昭からしたら僧として生きると思っていました。ですが、とある事件の影響で将軍になることになったんです。

2.足利義輝が暗殺される?!

とある事件ってなんだよって?それは1565年に足利義昭の兄でもあり、13代将軍足利義輝が、松永久通と三好三人衆に暗殺されてしまったのです。しかも、お母さんがこれを機に自害してしたり弟・周暠(しゅうこう)までも暗殺されたりしました。それ故に義昭は捕らえられて幽閉されてしまったのです。絶対絶命のピンチです。ですが、そんな時に転機がやって来ます。それは義輝の側近たちが、彼を救出してくれたのでした。そして、足利義昭は京都から伊賀(三重県)、近江(滋賀県)に逃れ、将軍になることを宣言し、還俗をしました。

3.すぐに将軍にはなれなかった

実は足利義昭はすぐには将軍にはなれませんでした。理由は義輝を殺害した三好三人衆らは、義昭の従兄弟・足利義栄を将軍にしたかったからです。また、足利義昭自身色々な将軍に声をかけたもののなかなか動いてくれる人はいませんでした。ですが、そんな時にある人物が助けてくれます。それは明智光秀です。光秀は優秀な人物で、信長と義昭の仲介をしたことで信長が義昭を連れて上洛するという話を付けることができました。そして、ちょうど足利義栄も亡くなったため、京都に入った彼はついに15代将軍になれました。その当時は将軍の権威を復活させようと意気込んでいました。

4.将軍として活動する

足利義昭は信長とともに将軍としての活動をしました。まず、義栄を支持していた近衛前久を追放し、管領・細川氏や畠山氏を再び重用するなど、自身の権力を安定させる対策を取りました。また、信長も足利義昭が襲撃された事件を機に足利義昭の御所を強化することを決断し二条城を作りました。それもあって足利義昭は信長のことを室町殿御父とまで呼んでいました。この時は2人とも仲が良かったのが物語れますね。

5.信長と対立し追放される

はじめは仲が良かったもののだんだんと信長と対立するようになりました。それは価値観の違いですね。足利義昭は幕府の復興を目標にしていまして信長は家臣とみていました。ですが、信長は自分がトップでいたいという野望がありました。トップは2人もいらないとはこういうことです。また、足利義昭は武将としては能力は特別あるわけではないので評価も低かったため、信長は政治のことは信長に任せ、勝手に大名に御内書で命令を下したりしないことなどを書いた五カ条条書や義昭の失政を厳しく指摘した十七カ条の異見書を書きました。これを見た足利義昭は怒り、信長と戦うことを決意しました。ですが、戦いに負けてしまったため、信長に追放されてしまいました。

※この話の詳細はこちらの記事に書かれています。

なぜ信長と足利義昭は対立したのか?

6.貧乏公方と呼ばれる

ニックネームが貧乏公方なのは追放されてからの生活が影響しています。追放されてからは各地を転々としました。まあ、将軍という肩書きはあるので、どこ行っても受け入れてくれますからね。それで、かつて、兄が暗殺された直後にも各地を放浪した経験があったからなのか貧乏公方と呼ばれていました。そして、最後に足利義明が頼ったのは、中国地方で一大勢力を誇る毛利輝元でした。ですが、京都への復帰は望めませんでした。

※追放後の人生はこちらの記事に書かれています!

足利義昭の追放後何していたのか?

7.秀吉のヒモになる

しかし1582年、本能寺の変が起きて信長がいなくなり、その後は秀吉が天下統一したため足利義昭は将軍職を辞し、天下を秀吉に譲りました。その際秀吉は足利義昭に名目上は1万石を与えたりそれ以外の待遇を与えたりしたそうです。そして、1597年に61歳でいなくなりました

本能寺の変でも関わっていた?

戦国一の謎な事件でもある本能寺の変に実は足利義昭が関わっていたという説があります。本能寺の変の主犯は光秀なのにどういことだと?実は光秀は足利義昭のところで仕えていました。それ故に2人は繋がっているということから足利義昭が黒幕として動いてたのではないかと言われています。やはり、追放の怨念はあるからこの説は出ているのかと思われます。実際にそれとないような証拠もあることにはあるそうです。まあ、あくまで参考までにくらいにしてください。本能寺の変に関しては28個くらい説があるので。昔の時代なので100%そうだというものがないからこそ。ちなみに、その他の説はこちらの記事に書かれています!

なんで?本能寺の変が起きた理由

まとめ

私自身、足利義昭のことは詳しく知りませんでした。ただ、信長に追放されたという事実は知っていたのでどういう経緯なのかなと疑問に思っていました。そんな時、その疑問を晴らしてくれたのが大河ドラマ「麒麟がくる」です。私的にはおそらく、元からバトル状態だったから追放されたのかと思ってたんですが、昔は共存していこうという仲だったに対立してしまい追放というオチだったのかとドラマ越しで見てなるほどと納得しました。

また、すぐに出家してしまったことから武士としての能力のない武将だということもドラマ越しで把握することができました。要はドラマ見れて学べたということですね。このようなことを踏まえても教科書以外に書かれていることを知るとより奥深く感じるかと思われます。ですので、ゴリ押しではないですがこの記事を通して足利義昭のことについて分かってくれる人が1人でもいたら嬉しいなと思っています。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう