足利義昭の追放後何していたのか?

どうも、りかちゅうです!皆さん室町幕府15代将軍こと足利義昭はご存知かと思われます。彼の行末に関しては信長に追放されたで言われていてそれ以降はそこまで有名ではありません。どういうことかと言いますと義昭は追放されていたからって死んではいないということです。理由は当然ですが信長は天下を取りたいからと言って義昭を殺さなかったからです。それもあって義昭は追放されていたとしても信長を倒そうなどの活動は盛んでした。書状を書いたりもしましたからね。では、そんな義昭、追放された後は一体どのような生活をしていたのか?この記事にて話したいと思います!

なぜ信長は義昭を殺さなかったのか?

たしかに、信長は義昭を追放しました。ですが、殺したわけではなく、追いやっただけです。では、なぜ信長は殺さなかったのか?

信長と義昭が対立した際に義昭は負けました。それで、信長は義昭の降伏の条件として、槙島城明け渡し、義昭の京都から追放すること。そして、義昭の子である義尋を人質として引き渡すようにと言いました。その際に義昭は受け入れたことから義昭は負けを認めたことになり、その話は全国に広まることになりました。それ故に事実上室町幕府が滅亡したことになっています。また、信長は朝廷に改元を願い出て、1573年7月28日より「天正」と改元されました。それもあって信長的にはこれで満足だったのかと思われます。

理由としては将軍である義昭を殺してしまうとメンツ的にも批判を浴びることから逆にアンチ信長の結束力が強くなりかねないからです。おそらく、元義昭の家臣であった光秀もそのようなことが執行されたら怒りを覚えることでしょう。そんなことはあってはならないですよね?ならば、戦略面に疎い義昭が生きて信長を攻撃するように必死になった方が、弱体化させられるとなったのかと思われます。要するに、信長は義昭なんて強敵なんかではないと思っていたのかもしれませんね。

追放後の義昭

1573年に義昭は京都から追放されました。では、そんな義昭は一体どのような生活を送っていたのか?

1.若狭に行く

同年7月19日に降伏した義昭は、7月21日には若狭城に行きました。その時にサポートしたのは本願寺の顕如だったそうです。

なぜ義昭は若狭に行ったのか?理由は城主は三好義継が義昭の身内を娶っていたからです。三好義継とは三好長慶から家督を継いだ三好家当主であり、義昭の兄である将軍義輝を殺害した主要メンバーではあるものの信長と義昭が上洛してからは服従し義昭の妹を娶っていました。となると身内ですね。また、義昭が信長に反発するのに合わせて、義継もまた反信長連合側になりました。要は信長アンチであるから頼ったということですね。ただ、義昭を匿った義継は、信長のターゲットとなりました。

2.堺に移動する

義昭は若狭城から頻繁に毛利に御内書を遣わしています。また、武田信玄や朝倉義景、本願寺顕如、浅井長政らと手を結び、上洛して信長を倒してほしいと依頼したそうです。ただ、毛利側からすると信長と戦うという気持ちというよりかは義昭帰京できるようにと信長に頼むという行動を取りました。ですが、義昭は納得しませんでした。理由は義昭は信長の勢力が消えた京都が良かったからです。信長がいたら再興は無理と分かっていたのかもしれませんね。

これは困った状況ですね。信長は許可したのに義昭は納得しないとなれば。それで、秀吉は堺で義昭を迎え、説得を試みましたが失敗しました。理由は信長から人質を出すよう要求したからです。それ故に秀吉は呆れて大坂に帰りました。だからって、信長と敵対は許されないです。それもあって、11月5日に堺に移動しました。

3.一旦、由良で落ち着くことになる

いつまでも堺泣いたわけではなく今の和歌山でもある紀伊の由良へ移動します。義昭は約2年間、興国寺で打倒信長の計画を立てていました。一方、信長は義昭など眼中に無く放置です。信長は着実に勢力を拡大し、従三位征夷大将軍兼権大納言に並び、従三位権大納言にの位をもらいました。信長は興味なくても義昭は興味ある。面白いですね。

ただし、義昭は1574年(天正2年)4月を最後にして、御内書を書いていません。信長が官位で義昭に並ぶのは1575年(天正3年)11月のことですから、それ以前に、義昭は今の立場では御内書を方々に遣わしてもあまり効果がないことを悟ったのかもしれません。

ですが、義昭は1574年4月を最後にして、御内書を書いていません。義昭は今の立場では御内書を方々に遣わしても効果がないと思ったのかもしれません。だからって、打倒信長は諦めたわけではなく、毛利氏に対し下向したいと伝えていたようです。毛利は信長の許可を得てからと濁してはいたんですけどね。それなのに、1576年2月、義昭はついに毛利の許可を得ないで毛利の勢力下にある備後に向かいました。そのため、毛利は受け入れざるを得ない状況となりました。

4. 鞆幕府となる

義昭は征夷大将軍の職はまだ保有していましたのもあり、毛利を頼って備後国の鞆へ移り、樹立した新政府は「鞆幕府(ともばくふ)」と呼ばれています。鞆という地は室町幕府1代将軍でもある足利尊氏が新田義貞追討の院宣を受領された地でもあり、室町幕府10代将軍の足利義稙が将軍職復帰を果たした地でもある場所であるため足利家にとってはゆかりのある地でもあります。そして、また義昭は信長を打倒する旨の御内書を書きました。どんだけ書くんだよってね。

まあ、こんなこともできるのは足利将軍家を支持する大名も多いからです。そこで、義昭は支持する大名家と共に再び打倒信長を掲げました。ですが、謙信は天正6年1578年にいなくなったり中国地方の大名たちは各々降伏したり武田勝頼が1582年の甲州征伐で滅ぼされたりなどで計画は失敗しました。そんな時タイミングよく信長が本能寺の変で自害。それと同時に義昭は京都に戻りました。

5.秀吉の元にいる

義昭は上洛の支援のために諸大名を頼った結果、毛利は輝元や家康が声を上げましたが秀吉の家臣になったことから計画は諦めました。また、その後1585年に秀吉が関白に就任したことにより秀吉が天下を握る時代へと移り変わっていきます。それもあって1588年に征夷大将軍の座を降りて出家しました。その際に義昭は秀吉の相談相手みたいなことをしたそうです。役職としては御伽衆(おとぎしゅう)といいます。そんな生活をして1597年、61歳で亡くなりました。

諦めなかった義昭

結局は秀吉のヒモみたいな生活をして人生を終わったちゃ終わりました。ですが、義昭はそれまでは諦めるということをしませんでした。もし諦めていたら反信長を集めようなんてことはしないですからね。やはり、父や兄の死など波瀾万丈な人生を送っていたからこそハングリー精神があったのかと思われます。義昭の人生についてはこちらを見てください!

貧乏公方!足利義昭の人生とは?

まあ、ぶっちゃけたことを言うと将軍としてのスキルとしては欠けてはいましたけどね←。ですが、殺されるということがなかったからチャンスというものがあったのかと思われます。生きていれば何かがあるかもしれないというのはこういうことかもしれませんね。

まとめ

私自身、義昭のその後は気になっていました。調べたところ信長は興味を示さなくなったのにもかかわらず義昭は信長打倒と言っていることが分かりました。それだけ信長に執念があったのかもしれませんね。にしてもその執念は強いなと思ってますwwwwwww。それもあって本能寺の変は義昭が黒幕だなんて言われてたりします。そこは謎ですけどね。ただ、戦略は乏しくてもここまで野心があるというのは強いです。この野心は見習うところはあるかもしれません。そこは見習おうと思いました。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう