なぜ信長は比叡山延暦寺を焼き討ちしたのか?

どうも、りかちゅうです!信長には残酷はエピソードのある人ではあります。確か身内の手を切って焼いたみたいな話を軽く聞いた覚えがありますが。要は信長とは過激的なことをしている一面もあるということですね。特にその過激様を露わにしたエピソードがあります。それは比叡山延暦寺焼き討ちです!有名な話ですので聞いたことはある話かと思われます。寺焼き討ちって何事って感じですよね。なんでそんなことをしたんだよと疑問に思う人もいるくらいに。ですので、この記事では信長が比叡山延暦寺を焼き討ちにした理由について話したいと思います!

比叡山延暦寺とはどんな寺?

信長が焼き討ちした延暦寺ですが名前は分かっててもどんなお寺か分からないですよね?おそらくお寺ヲタクでないと詳しくは知らないかと思われます。ですので、まずは比叡山延暦寺とはどんなお寺かについて話したいと思います!

比叡山延暦寺は天台宗の総本山として京都と滋賀の境あるです。特徴としては山全体がお寺だそうです。なぜ延暦寺が造られたか?それは平安時代に遡れば分かります。その当時、陰陽道で「北東」の方角は鬼が出入りすると言われていたことから平安京にとっての北東である比叡山に延暦寺を建てることで魔を封じようという考えがあったからだそうです。また、寺の名前は当時の元号が「延暦」だった頃から延暦寺と言われるようになったそうです。

延暦寺焼き討ち事件の経緯

以上が延暦寺に関する概要です。延暦寺とは平安時代時代からある古きお寺ですね。では、どのような経緯で戦乱の世の中こと戦国時代経緯で延暦寺焼き討ち事件が起きたのか?時は1571年です。後ほど話しますが信長は朝倉・浅井家と対立していまして朝倉・浅井家は姉川の戦いで信長に負けたことで延暦寺に逃げ込みました。要は延暦寺がかくまったということですね。これは信長にとっては不都合な話ですよね。新倉・浅井家に勝ちたいわけですから。そこで、延暦寺を一斉放火のするという行為をしました。その際に新倉・浅井家以外にも僧侶や女性、子どもまで撫で斬りにしたそうです。これだけ見るとかなり残酷ですよね。

なぜ延暦寺を焼き討ちにしたのか?

比叡山延暦寺を焼き討ちにした理由は朝倉・浅井家の事情はもちろんのことですがそれ以外にも理由はあることにはあるんです。一体どのような理由で信長は焼き討ちにしたのか?

1.比叡山と信長は対立関係にあったから

実は比叡山と信長は対立関係にありました。きっかけは信長による比叡山の領地を横領しようとしたからです。実は延暦寺の住職が働きかけたことで朝廷から寺領回復の文書が出されていたんですよ。ですが、信長は従いませんでした。

理由は信長自身がかなりかなり勢力を伸ばしていて、それを後押ししていたのが室町幕府15代将軍・足利義昭でした。その経緯としては義昭は将軍職を引き継ぐべく上洛しようとした時朝倉義景に援護の依頼しました。ですが、朝倉義景は消極的だったため当時勢力を強めていた信長に頼りました。それによって信長は優位な立場を手に入れ朝廷との関係を強くすることができました。これは信長の意見が通りやすいということでもありますね。

2.朝倉・浅井家を庇ったから

義昭のおかげで権力を手にいれた信長でした。ですが、朝倉義景はよく思ってはいませんでした。それ故に信長から将軍に挨拶するよう命じられても聞く耳を持たない状態でした。この様にブチ切れた信長は朝倉家を攻撃します。ですが、同盟を結んでいたはずの浅井家裏切られて背後から攻められてしまいます。これは信長にとって予想外でもあった話です。実は信長の妹ことお市が浅井長政と婚姻関係を結んでいたからです。兄妹なのに敵同士ですね。ただ、なんとかして姉川の戦いで信長は勝ちましたが対立はそれで終わらず続いていました。その際に比叡山延暦寺が浅井・朝倉両軍の兵をかくまっているという話が流れてきました。そこで、信長は浅井・朝倉家と手を切って自分の味方をすれば領地は返すが従わないなら焼き討ちにするといいました。ですが、延暦寺側は信長の条件を聞き入れずに朝倉・浅井家を庇ったので焼き討ちを実行しました。

3.軍事拠点だったから

戦国時代の寺社勢力は、政治や軍事などの面でも大きな影響を与えてしました。武士と僧の人達が関係性あるって一見意外ですよね。特に比叡山延暦寺は寺領や経済力に関しては大きな力を持っていたり、多くの僧兵を抱えていたりしたのもあって一大名と同じくらいの勢力でした。それもあって無理矢理意見を通したり、高利貸しや女遊びをしたりといった堕落な一面もあったそうです。要はそれくらい力があったからこそ軍事拠点としてみなされていました。これはその当時天下を狙っていた信長にとっては不都合な話ですよね。ここまで勢力があると信長の配下にはなれないという意味で。

結末はどんな感じ?

焼き討ちにした理由は完全に新倉・浅井家を倒したかったというのが明らかですね。ではいったいどのような形で延暦寺は焼き討ちされてしまったのか?

1.3万の兵で焼き討ちする

信長は朝倉・浅井家に降参を求めるために前日夜中から3万の兵士を比叡山東麓に配置しました。なぜ3万ものの兵を使ったかというと重臣の池田恒興から「夜になると逃げる者が出るから、早朝を待って攻めれば一人残らず討ち取れる」と言われたからです。要は徹底的に攻撃したかったということでもありますね。その状態に対して延暦寺側はお金を差し出し攻撃をやめるようにリクエストをしましたが信長は受け入れるわけがありません。それ故に一部の住民は逃げ延びたもの早朝に織田軍による総攻撃が開始され、数多くの僧侶や住民が殺されたそうです。犠牲者の数はなんと数千人やら3000~4000人と記録されています。

2.その後の延暦寺

焼き討ちが終わった後は処理係でもあった家明智光秀が近江の寺院に放火して寺領・社領を没収しました。補足ですが比叡山延暦寺焼き討ちの件の影響で信長とすれ違いが起きてはいたそうです。理由は延暦寺の地形が戦闘に有利だったためことごとく奪いたかったからかとおもわれます。そして、没収した領地は明智光秀・佐久間信盛・中川重政・柴田勝家・丹羽長秀の5人に分配されました。その際に明智光秀はこのときの領地を中心に支配していくこととなりました。

一方、延暦寺から命からがらになっても生き延びた僧たちは、武田信玄に頼りました。真田家が使えていた親方様ですね。信玄は頼ってきたこともあり延暦寺の復興を試みようとしてみたそうです。ですが、信玄自身も病死してしまいました。それ以降は1579年にには正親町天皇が再興願いをしましたが信長によって阻止されてしまったためなかなか延暦寺を復興することはできませんでした。ですが、約13年後に転機が訪れました。なんと秀吉が山門再興を認める判物と造営のための青銅が贈ったそうです。これは信長の死後の話ですね。

まとめ

たしかに、寺を焼き討ちなんてかなりの残酷ですよね。というか仏からバチ当たるぞというくらいのことをしていますよね。まあ、明智光秀に裏切られたというバチは当たりましたけど。ただ、当時の信長からすると勢力も大きくて邪魔だし朝倉家と浅井家を潰すにはそれくらいのことをしないと果たせなかったということでもあります。要は残酷であったとしても天下を取るには悪行も必要ということですね。これは秀吉にも家康にも言える話です。ですので、私的な意見としては悪いことではあるもののあの時の強行的な策を取らないと勝てなかったと思っています。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう