道長の姉!藤原詮子とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!道長が出世の道を歩めたのは誰のおかげか分かりますかね?詳しく言うと道長が道隆キッズとの権力争いで勝てたのはその人がいたからと言っても過言ではありません。その方は藤原詮子と言います。どんな人かと言うと道長の姉です。2人は仲が良かったそうです(光る君へを見ている人ならわかるかと思われます。どんな時も詮子は道長の味方ですよね。)。また、彼女自身も一条天皇を産んだことで立場が上になりました。要は仲良い同士の出世ですね。ではどんな人だったのか?この記事にて話したいと思います!

藤原詮子のプロフィール

道長は有名でも詮子はそれほどです。女性ってそうならざる得ないんです。ですので、まずは彼女のプロフィールから見ていきましょう!

名前 藤原詮子

生年月日 961年

没年 1002年2月7日(享年40歳)

備考

道長の姉であり一条天皇の生母です。彼女は円融天皇と結婚したものの立場が側室のようなポジションではなかったです。ですが、正室のような人が子供を産まなかったため詮子が有利になりました。

藤原詮子の人生

以上が詮子のプロフィールです。では彼女はどのような人生を歩んだのか?

1.生い立ち

詮子は962年藤原兼家と時姫の子として生まれました。兼家は兄弟争いに勝ち政界を牛耳っていた藤原北家の権力者となりました。そのため、詮子は強い後ろ盾があるため優勢でした。理由は当時の貴族社会では父親の社会的地位が子どもの出世にも大きく影響していたからです。これは詮子はいい家の所に嫁ぐことができますね。

2.円融天皇の女御となる

父親が権力者ということもあり978年に詮子は円融天皇の女御になります。女御とは天皇に仕える妃の中でも身分が高い女性のことを指します。ちなみに女御はほとんどが上流階級の娘が選ばれていました。詮子は女御として、宮中で暮らすこととなったのです。ただ、女御は正室ポジションではないです。そのため、不利っちゃ不利なことはありました。

3.子供を作る

円融天皇の女御として宮中での生活を送っていた詮子。980年に円融天皇との間に後の一条天皇を授かりました。詮子は懐仁親王を溺愛したそうです。また、詮子のお父さんの兼家も一条天皇の誕生を大変喜んだとされています。また、あの時代は夫婦の間に生まれた子どもは、母方の親族によって養育されるのが通例でした。そのため、一条天皇を天皇の座につけることで兼家は外祖父として権勢を振るうことができます。これは何としても後の一条天皇を擁立したいとなりますよね?

4.寛和の変で花山天皇を追いやる

詮子は円融の次に天皇となった花山天皇の後は後の一条天皇を擁立させるという約束を円融天皇としたそうです。これは花山天皇をなる早で退位させないと権力を得ることができません。

そこで兼家は花山天皇に出家を勧めました。詳細としては兼家の次男こと道兼が花山天皇に一緒に出荷しないかとそそのかすという感じです。これは花山天皇は乗っかってくれました。じゃあ道兼も出家するのって?しませんよ。途中であえて道兼は別行動をしたことで道兼は出家を逃れます。一方で花山天皇は道兼が逃げたことを知らずに出家しました。もちろん花山天皇は激おこでしたけどね。ちなみにこの事件を寛和の変といいます。詳しいことはこちらを見てください!

花山天皇が陥れられる?寛和の変とは何か?

ただ、どんなに怒っても花山天皇は出家を取り消すことができません。そのため、986年に一条天皇が即位します。この影響で詮子は側室ポジションから皇太后という正室のようなポジションとなったことで長く権力を持つこととなりました。

5.出家と最期

その後も詮子は権力を持つだけでなく政治的なことに意見を言っていたそうです。女性であっても政治的なことで表に出るとは相当の力のある人ですね。ただ、しばらく経ってから出家することにしました。出家してからは東三条院として政治への干渉をしました。ですが、1002年に40歳で生涯に幕を閉ざしました。

藤原詮子のエピソード

以上が彼女のエピソードです。女性でありながらも政治に活躍するなんてなかなかですね。そのため、エピソードはあります。ですので、彼女に関するエピソードを話しますね。

1.涙をしてでも一条天皇に道長を推す詮子

道隆と道兼がいなくなってからは道長政権が確立されました。それは詮子による大きなバックアップがありました。実は詮子は弟の道長推しです。光る君へを見ていたらもう分かりますよね。道長が道兼に殴られていた時からずっと仲良かったですからね?ここまで来ると詮子はブラコンなのかなと思っちゃいますね(道長だけにブラコンになっている感じですけどね)。そのため、道長と伊周の権力争いの時にも当然道長の味方になります。

 ただ、一条天皇に関しては定子を深く愛しており、定子の兄にあたる伊周を贔屓する感じでした。これは道長は不利です。詮子も当然不満です。そこで、詮子が一条天皇の説得させました。やり方としては詮子は一条天皇の寝所に押しかけ涙ながらに道長への関白宣下お願いしました。

一条天皇としてはなんかなって感じだったそうです。なぜなら、元から口うるさい詮子を少々煙たく感じていたため一条天皇は詮子のところに出向いたりしなくなっていたからです。ですが、一条天皇は道長の出世の件を認めました。その時詮子の顔は泣いて赤くなっていたそうです。

2.前例のないことをした女性

前例のないことをした?実は2つのことは詮子が初めての事例となります。ですので、その話もしますね。1つ目は立場の逆転です。詮子は円融天皇の女御であり天皇の正式な妻である中宮や皇后ではありませんでした。ですが、一条天皇が天皇に即位すると、天皇の生母ということで女御から皇太后というポジションに昇格します。実は、女御から皇太后になったのは詮子が初めての事例でした。

2つ目は名称です。夫の円融天皇が亡くなった後詮子は出家し住まいの邸宅東三条邸に由来して東三条院(と呼ばれるようになります。この名称を「女院号」と言いますが女院号を始めて名乗ったのも詮子は初めてです。

まとめ

道長のことが相当好きだったのが伝わりましたね。その絆がなかったら道長は出世できなかったかもしれませんね。また、ただのお嬢ではなく政治的にも口出していたことは立場として有利になっていたのかと思われます。以上です!

最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう