花山天皇が陥れられる?寛和の変とは何か?

どうも、りかちゅうです!光る君へで目立っている人物の1人でもある花山天皇って残念なことに陥れられてしまいます。簡単に言えば花山天皇のバックとなる人がいなくなってから藤原兼家ファミリーに追いやられてしまいます。そうじゃないと藤原兼家ファミリーは繁栄することができませんからね。そう考えると藤原兼家ファミリーによって追いやられた人って思った以上にいそうですね。残念なサラブレッドこと公任もそうですし。まあ、そんなことはさておき、花山天皇が陥れられる事件ってどのようなものなのか?寛和の変と言って藤原道兼が花山天皇に出家させるように促したことで花山天皇は出家してしまったんですよ。そのせいで花山天皇は力を失いました。ではなぜそうなってしまったのか?この記事にて話したいと思います!

花山天皇とは何者なの?

花山天皇とは光る君への美形枠です。本郷奏多が演じているからそうなるんですけどね。にしても本郷奏多は公家の役が似合いますね。まあ、そんなことはさて置き、花山天皇の特徴を話しますね。花山天皇はプレイボーイで和歌の天才だったそうです。ドラマでも女関係がすごいことが分かりますね。NHKで流していいのってものもありましたが。

そんなことは聞いてない、歴史的なことを話せって?失礼しました。花山天皇は藤原伊尹の力があって天皇をやっていたんです。平安時代の公家は貴族のバックありきの存在なので仕方ないです。ですが、その藤原伊尹がいなくなったことで藤原兼家ファミリーにハメられて出家という結末に至りました。要するに、彼は権力を失ってやられてしまった人ってことです。彼に関しての詳しいことはこちらの記事に描かれているので見たい人は見てください!

仕組まれた天皇!花山天皇とはどんな人?

寛和の変の経緯

以上が花山天皇の概要です。先ほども述べたように花山天皇を支援してくれる人が消えたことで寛和の変が起きた感じです。では、寛和の変が起きるまでどのような経緯だったのか?

1.女のバトル

花山天皇の前の天皇こと円融天皇は関白となった藤原頼忠の娘である藤原遵子を正妻に迎え遵子の生む子を次期天皇にすることにしていました。これは藤原兼家ファミリーには不都合なことです。実は円融天皇は藤原兼家の娘である藤原詮子も嫁の1人にしていましたが詮子は円融天皇から干されていたため詮子は円融天皇とは離れて暮らすようになります。これを見ても詮子は女の権力争いという戦いに負けています。天皇に好かれているかどうかで勝負が決まったって感じですね。なぜなのか?なんか円融天皇は兼家のライバルである兼通と友好的だったため兼家とは不仲とまで行かなくとも微妙な関係でした。そのため、兼家の娘である詮子は円融天皇から疎まれたそうです。

2.遵子の弱点

藤原遵子には権力争いにおける致命的な弱点がありました。それは円融天皇との間に子がいなかったことです。一方、詮子は干されていても子はいました。これは干されていても大きなアドバンテージです。後継がいる人といない人ならば後継がいる人が優先になりますからね。そこで、兼家はこの事実を最大のチャンスと捉え詮子の授かった子を天皇にするために必死になります。そのチャンスが訪れtらのは984年のことです。円融天皇が譲位し花山天皇が即位した時に兼家は権力を得るために必死に頑張ります。

3.花山天皇が即位された理由

花山天皇は、冷泉天皇と藤原伊尹の娘の藤原懐子との間に生まれました。それで、藤原伊尹は生きているとき強大な権力を持っていたため死ぬ前にその権力によって花山天皇を皇太子にしました。また、花山天皇にはあんなに遊んでいたのに子どもがいなかったため皇太子には藤原詮子の子でもある一条天皇を次の天皇に立候補しました。この時点え最後の最後に逆転勝利したのは詮子かと思われます。しかも、藤原伊尹は早いうちにいなくなっていました。そのため、花山天皇にはバックがいません。そので、兼家は一条天皇を一刻も早く即位させて外戚として権力を得るために花山天皇追いやり作戦を実行しようとします。

寛和の変の流れ

遵子に子供ができなかったことが兼家にとって激アツな話であったということになりますね。ではどういった流れで寛和の変が起きたのか?

1.花山天皇の最愛の人がなくなる

985年の7月に花山天皇が気に入っていた女御が亡くなりました。この時の花山天皇の悲しみ方は常軌を逸していたと言われています。どれくらいかと言いますと寵愛する女御の死に絶望し天皇を退位し出家しようと考え始めます。天皇をやっている時に出家なんてタブーだったそうですよ?それなのにそんなことを言うなんて相当ですね。

2.悲しんでいる時に漬け込む兼家

兼家は一条天皇を即位できる大チャンスだと考えました。そこで、兼家の息子である道兼が蔵人をしていたので花山天皇の出家を後押しするよう道兼に命じます。その命令に乗った道兼は花山天皇に出家して女御の菩提を弔うことこそが花山天皇のなすべきと言いました。また、道兼は花山天皇とでしたら私も一緒に出家しお供するとも言ったそうです。その発言があったことで花山天皇はその話に乗っかりました。

3.騙される花山天皇

986年に道兼は天皇とともに出家するためにお寺へを向かいました。その際に兼家は邪魔者が出家を阻止することがないように武士を雇って周辺警護をさせたそうです。もうこれで作戦は実行できます。どういうことかって?道兼はお寺へ向かう時に一旦兼家の家に寄るから先に出家の手続を行ってと花山天皇に言います。もちろん、道兼は一度花山天皇の下を離れた後は二度と花山天皇の下に戻りませんでした。要するに、花山天皇は、知らないうちに退位へ追い込まれてしまいました。一方で兼家は天皇のその間に居室へと侵入し、天皇即位に必要な三種の神器を一条天皇の下へ運びます。

その後どうなったのか?

その後986年6月に一条天皇が誕生しました。まだ7歳なのに天皇です。キッズを使えば権力を得ることなんてできますからね。となると、一条天皇の即位により藤原兼家はついに念願の天皇の外戚になったということにもなります。もちろん、藤原兼家が摂政の役職にも就いています。このように、花山天皇が出家してから藤原兼家ファミリーがどんどん権力を得るようになります。もちろん、道長もその一員です。一方で花山天皇は出家してても女遊びをしていたそうです。

寛和の変はいろんな作品に描かれている

寛和の変はその当時有名な事件の1つでもありました。藤原兼家ファミリーが今後権力を持つからこそ有名なのかもしれませんね。そのため、いろんな作品に寛和の変が載っているそうです。源氏物語にも寛和の変を匂わせたシーンもあるそうです。となれば枕草子にも載っていてもおかしくないかと思われます。また、1000年以降の作品だと大鏡や扶桑略記、愚管抄が寛和の変を歴史的に書いているそうです。このように寛和の変は語り継がれていた事件であったことが明らかかと思われます。

まとめ

しれっと出家させたってことですね。しれっとしすぎてて怖いなと思ってしまいました。あと私的には兼家が三種の神器を盗んでいくことにも笑っちゃいました。そこまでしてでも権力が欲しいってなかなかだなと。まあ、これ見ても平安時代って意地でも権力を取らないとやってけない時代なことを改めて実感しました。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう