2026年の大河主役!豊臣秀長どんな人?

どうも、りかちゅうです!秀吉って弟がいたんですね。別に兄弟や姉妹の1人や2人くらいいてもおかしくないものですけどね?あの時代なんて子供は産んだ方がいいような世界なんですから。そんなことはさて置き、なんでそんな話をしているのか?実は2026年の大河ドラマの主役が秀吉の弟らしいですよ?名前は豊臣秀長というそうです。役目としては秀吉の補佐をしていたそうです。今でいう社長の側近に近いような感じでしょうね。家族だからこその距離もあったのかなと。実は秀長なんですが縁の下の力持ちとして活躍していたそうです。ただ、秀吉が目立っているためなかなか有名ではないです。ですので、この記事にて話したいと思います!

豊臣秀長のプロフィール

秀吉ばかりが目立っているから秀長って何者なんだよって思いますよね?ですので、安定のプロフィールから見ましょう!

名前 豊臣秀長

出身地 尾張

生年月日 1540年4月8日

没年 1591年2月15日(享年52歳)

備考

秀吉の弟です。ネットで調べたところ、秀長何いなくなったことで豊臣家を弱体化させたという説もあります。それくらい豊臣家には必要な存在だったとも言われています。秀長がいれば秀吉はある過ちをしなかったのかなとは思いたいですね。

豊臣秀長の人生

以上が秀長のプロフィールです。では、彼はどんな人生を歩んだのか?

1.生い立ち

秀長は1540年4月8日に尾張国中村の農民の家に生まれました。秀吉の3つ下ですね。その時から仲良かったのかと言われると違うそうです。実は秀吉は秀長が幼い頃に家を飛び出しており2人の間がどれほど親密であったかは不明だそうです。一方で秀長は農家の生活に嫌気がさした秀吉とは異なり真面目に働く青年に育ち、稲の成長を日々気にする生活をしていたそうです。そのため、家族や村人に愛されて育っていたそうです。

2.秀吉にスカウト

こんな感じで秀長は農民生活を送っていました。秀長はその生活に満足していたし村年寄りになることを夢としていたそうです。ですが、そうは行かないことが起きます。なんと、家をでていってたか秀吉が突然帰って来たのです。それだけでななく信長の家臣となっていました。それで、秀長は秀吉にお前もついてきてと誘われました。秀長はその話に乗ります。農民のままでいいって気持ちはどうしたのって?おそらく、秀吉の熱い思いからついていこうとなったのかと思われます。

3.留守係として活躍

武士になったとは言えずっと農民なためいきなり戦地には行っていません。まずは当初は戦場や敵の領地に調略に赴く秀吉の不在を守る仕事をしていました。具体例として1573年秀吉は浅井家を滅ぼした功績で長浜城の城主となったときに秀長が城の留守役を務めたそうです。おそらくそこから戦場での振る舞い、兵の進退、内政のやり方など学んだのかなと思われます。

4.武士としての功績を作る

1574年に秀吉が越前一向一揆のことで手一杯になったとき秀吉の代わりに秀長が長島一向一揆の討伐に出陣したそうです。代理になれるまで成長したってことですね。また、毛利のいる中国地方征伐の時は秀吉は総司令官を命じられ際に秀長も従軍するんですよ。その際に秀長は一手の将として重責を担うほどに成長していだそうです。ずっと農民でいいやって人ではないだろと思っちゃいますね。

5.大名となる

他にも秀吉が参加してる戦には秀長はいます。その中でも秀長は賤ケ岳の戦いにも参陣しています。その時の功績から播磨・但馬の二国を与えられたことで秀長は数十万石の大名に出世しました。また、長宗我部との戦いでの功績として播磨国・但馬に大和国を加増されて100万石で郡山城の城主となりました。その際に秀長は国を治めつつも大和の陶器や赤膚焼を開窯するなど広い政策を行いました。そして、従二位、大納言の官位を得たことから大和大納言と称されます。

6.晩年

このように、功績を作ったものの、1586年頃から
体調が崩れやすくなったそうで数度温泉へ行っていたそうです。

それもあって、小田原討伐には参加できませんでしたそうです。そんな姿を見た秀次も秀長の病気回復の祈願のために談山神社に行ったそうです。実は秀次と秀長は仲良いんです。秀次が誤解という形で謀反とみなされた時に秀長はなんとかしてでも助けようとしたそうです。ですが、平癒祈願は叶わず1591年2月15日に秀長は52歳で亡くなります。

豊臣秀長の性格や逸話

秀長なんですが性格も味のある人です。逸話なども意外とあります。ですので、そこら辺も話しますね!

1.暴れる足軽を黙らせる

秀長が戦のリーダーとして務めるようになってから何日かにある逸話があります。グループ内で足軽同士の喧嘩が起ったそうです。なんとかするためにその仲裁に秀長が入ります。そのことに不満に思った方が大きな声で抵抗します。その時の秀長は自分の腰の刀を抜いて斬れるものならこの刀で自分を斬ってみろと言って黙らせました。戦経験がそうない秀長からしたら騒ぐ足軽は怖かったと思われます。それなのに強い姿勢で黙らせるのは度胸ありますね。

2.内政もしごでき!

1585年ころのことです。秀長が統治していたエリアはもともと寺社勢力が強い場所でした。そのため、なかなか統治することが難しいです。ですが、彼は当時問題となっていた盗賊の問題を解決するために盗賊を追いやらために懸命になりました。また、秀吉の政策でもあゆ太閤検地を実施したり、条例を制定をしたりするという形で大きな問題を起こすことなく上手に領国を治めていたそうです。

3.頭がよく戦略上手

戦は作戦を練らなくてはならないものです。その際に秀吉にアドバイスをしたり、指揮をとったりしていたのが秀長です。しかとそのアドバイスは常に的確だったという評価があるくらいに秀長は頭がよかったそうです。それもあって、彼の死が豊臣政権没落の理由とも言われています。

まとめ

大河ドラマで秀吉の弟こと秀長をやるのは驚きでしたね。そうきたかと。私的には農民でいいと思っていた秀長がどうやって武士としての自覚を持ち活躍していくのかが見どころだなと思っています。きっと初めは秀吉の気持ちで動いたけどだんだん当事者意識が高まっていくように描かれるのかと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう