実朝の暗殺と鶴岡八幡宮の闇と黒幕

どうも、りかちゅうです!鎌倉に観光するときに鶴岡八幡宮に行く人はいるのかなと思われます。それはそうですよね。有名なスポットではありますから。旅行関係の本にも鶴岡八幡宮が載っていますしね?それがどうしたんだよって?実は鶴岡八幡宮にはとある闇があります。それは鶴岡八幡宮は鎌倉幕府3代目将軍こと実朝が殺された場所です。しかも自分の甥の公暁に殺されました。本当に闇が深い鎌倉初期です。ただ、この事件それだけで済まされるものではないんです。公暁の単独犯であるとは言い切れない一面があります。ですので、この記事にて話したいと思います!歴史的背景を知った方が観光も楽しめると思いますよ?

鶴岡八幡宮の暗殺とは何?

鶴岡八幡宮の暗殺とは何かと思いますよね?ですので、今から簡単に話しますね!

後ほど話しますが実朝は右大臣に昇格しました。それ故に右大臣拝賀の儀が1219年1月27日に行われました。その日は夜になって雪が60cmほど積もる寒い日だった。それなのに午後6時頃に実朝は御所を出て鶴岡八幡宮に向いました。そんな時にある事件が起きます。神拝の儀式が終わり実朝が退出するために大石段を降りているときにある人が実朝に襲い掛かり太刀で実朝を殺しました。その名は頼家の息子こと公暁です。自分が後継になれなかったことへの怒りがあったからそんなことをしたのかもしれません。または、誰かしらが黒幕だったという説もあります。まあ、何がどうあれ実朝が殺されたのは事実です。ちなみに、公暁も三浦義村に裏切られ殺されました。

暗殺までの流れ

実朝の暗殺には色々ありました。それは公暁の野心だけではないです。ですので、今から暗殺までの経緯について話しますね!

1.後継者問題と

将軍となったからには後継者が必要です。基本的には自分の長男です。ですが、実朝には子供ができませんでした。それ故に後継者を誰にするかが問題でした。一応候補はいました。それは頼家の息子こと公暁でした。確かに彼は頼家の息子なため後継ぎの権利は剥奪されてはいます。ですが、血筋的には候補です。あとは全成の息子の時元です。このように、源氏の血筋でなんとかできました。なるたけ源氏の血筋がいいですしね。ですが、実朝はそうはしませんでした。

2.公武融和体制

せっかく源氏の血筋の人がいるならばその人にすればいいと思いますが実朝はそうはしませんでした。なんと養子を取ることにしました。養子になるのは後鳥羽上皇の皇子でした。理由は色々ありますが源氏の正統が途絶えるならば官職を高め、家名を上げておきたいという考えはあったのかなと思われます。ちなみに、実朝は右大臣に登りつめました。

また、それだけではなく北条と手を組まずに後鳥羽上皇と親交を深めたかったからかとも考えられます。なぜなら、北条は執権政治という形をとって実朝をお飾り扱いにしていたからです。また、如ば上皇も北条を良く思ってはいませんでした。それ故に公武融和体制を取ろうとしたのかなと思われます。ただ、後鳥羽上皇は実朝を利用して西側の権力を強めようとしていただけだと思いますけどね。

3.暗殺事件

1219年1月27日に実朝の右大臣のお祝いの儀がありました。先ほども述べたようにその日は大雪だったのに決行しました。そして、帰り道に公暁によって暗殺されました。その際に公暁は鶴岡八幡宮にある大銀杏からタイミングを見計らって「親の仇はかく討つぞ」と叫んで殺したそうです。そして、公暁は源氏を乗っ取った義時を殺そうとしたものの、間違て源仲章も殺しました。おそらく、公暁は僧となったものの、還俗して将軍になりたかったのから実朝を殺したのかなと思われます。根拠としては鶴岡八幡宮別当になっってからの行動です。公暁はひたすら籠り、祈り続けていただけでなく出家してたのにもかかわらず、髪を伸ばし続けていたそうです。僧として生きたくないという心が見え見えですね。

暗殺事件の違和感

このように実朝の暗殺事件の犯人は公暁であるのは事実です。ですが、違和感のある点があります。それは犯行人数です。

確かに実朝たちが武装していなかったです。ですご、わずかの時間で実朝と仲章を殺している時点で単独での実行は難しいと考えます。一応共つ八幡宮の神宮寺の僧が疑われ取り調べを受けますが嫌疑は晴れています。それ故に真相は謎のままです。また、父の仇とは言ったものの、実朝は頼家を殺してないです。頼家は北条と比企の争いの影響で北条によって殺されました。となると、誰かが公暁に頼家は実朝の命令さで殺されたと言った可能性もあります。それ故に単独犯が怪しいと言われています。

黒幕は誰だ?

上記の内容がある時点で鶴岡八幡宮の時間は黒幕がいるという説があります。では黒幕は誰なのか?

1.義時説

源氏を滅ぼして北条を栄させようとした義時が黒幕という説もあります。実は義時は実朝の右大臣就任の時に体調を崩したと言って侍従の役を源仲章に代わってもらいました。仲章は実朝と共に殺されていますよね?となると、義時は公暁の犯行を予め知っていたから欠席したと言っても過言ではないです。それ故に義時が黒幕なのではないのかという説があります。まあ、公暁からしたら頼家を殺した北条が許せないのも無理ないです。だからこそ、実朝の首と同時に義時も討ちたのかと思われます。

2.北条と三浦の共謀説

北条と三浦はニコイチです。北条のサポートをしていたのは三浦と思えばいいです。だから、鎌倉幕府滅亡の時も三浦はボコボコにされました。まあ、そんなことはさておき、自分たちの権力のために義時と平六が結託して公暁をけしかけたという説もあります。要するに、鶴岡八幡宮の事件は義時と平六の計画通りだったということです。実朝は朝廷との連携も視野に入っていたときでした。これでは北条氏の権力が小さくなります。そこで、その北条と三浦が手を取り合って公暁を利用したのかなと言われています。平六は公暁の乳母父なのに自分の権力のためにあっさりと裏切りますね。だって後継は公暁だと煽ったのは平六ですからね?きっと義時よりも残酷なのかなと思ってしまいます。

暗殺事件の後はどうなったのか?

暗殺事件の後は後鳥羽上皇が暴れ出します。まあ、それもそうです。悪い言い方をすれば後鳥羽上皇は実朝を利用していましたからね。なぜなら、北条を潰して朝廷の権力を高めようとしたかったからです。そうじゃなかったら自分の身内を実朝の養子にしようとなんてしません。また、仲章も殺されたわけですから後鳥羽上皇にとっては不利です。そこで、まずは摂津国の長江・倉橋の荘地頭を変えろと言いました。なぜなら、義時が担当していたからです。もちろん、そんな義時は要求は応えません。後鳥羽上皇に威嚇をしました。このようなバトルから公武融和体制は崩壊していき承久の乱へと繋がります。

まとめ

もし実朝なら跡継ぎこと長男がいたらどうしてただろと思っちゃいますね。きっとその長男が跡継ぎだったんでしょうね?それ故に公暁に殺されることも後鳥羽上皇の養子にするなんてこともなかったはずです。要するに、鶴岡八幡宮の事件にはならなかったということです。だからって、北条が何かしているかもしれません。少なくとも北条が栄えていたらどんな時でも将軍はお飾り扱いみたいになっているのは間違いないです。ですが、源氏の血筋が一気に消えるという事態はなかったと思います。そう考えると自分の血筋のある跡継ぎがいないという状態は致命的だと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

りかちゅう