阿茶局ってどんな人:家康が寵愛した女性

どうも、りかちゅうです。

皆さん阿茶局(あちゃのつぼね)という女性を知っていますか?誰だよ?誰だよと思う人と歴ヲタだから分かるという人がいるかと思われます。簡単に言えば阿茶局はあの徳川家康の側室でもあり、家康が最も寵愛した女性です。そんなこといきなり言われてもだから何だよって?まあまあ、落ち着いてくださいよ。冷静になってみてください。だって天下を取ってから260年も幕府を続けた実績のある人物が寵愛した女性ってどんな人かって少しは気になりません?まあ、言われてみればそうかもと少しはなってくれたら嬉しいですが…。ということで、この記事では家康が寵愛した女性こと阿茶局とはどんな人かについて話したいと思います!

阿茶局の生い立ち

阿茶局は1555年2月13日に武田信玄の領地でもある甲府で生まれました。バレンタインの前日に生まれたんですね。話そらなさくていいからって?申し訳ございません。話を戻しますね。幼名は須和(すわ)と名付けられました。(阿茶局と名付けられるまでは須和と表記します。)それで誰の子かと言いますと武田家の家臣の1人でもあった飯田直正です。飯田家は本当は桶狭間の戦いで織田信長に敗れた今川義元の家臣でした。しかし、今川義元と武田信玄が和睦した時に武田家の家臣に変わりました。

ただ、飯田家とはどんな家か分からない人もいるので解説しますね。飯田家は清和源氏(清和天皇の皇子達から続く氏族)から始まる源満快(みなもとのみつやす)の祖先です。数代後、信濃国司になったことから清和源氏から信濃源氏となりました。その中にいたのが飯田家です。源頼朝に従い、鎌倉幕府創設に馳せ参じ功績を成したことから甲斐国西山梨郡(山梨県甲府市)の領地をもらい一族を存続していました。

17歳で嫁ぐ神尾忠重に嫁ぐ!

阿茶局こと須和は17歳のときに神尾忠重に嫁ぎます。1572年のことでした。未成年で嫁ぐって今じゃ若いって感じですよね?ですがこの当時はそのくらいの年で嫁いじゃうんですよ。神尾忠重は今川家臣でした。しかし、今川家滅亡後に武田家の家臣となりました。それで、なんで嫁いだかというとその当時飯田家と神尾家の結びつきが強かったからです。要はお互いの結びつきをさらに強くするために血縁関係を作ったということです。

ちなみに神尾忠重は27歳で須和とは10歳も歳上でしたが、よく顔合わせをする仲だったので納得の結婚だったそうです。須和は嫁いだのちに神尾守世、神尾守繁を産みました。また、養子として神尾元勝、高源院(鍋島勝茂正室) を育てています。

ただ結婚生活としては慌ただしかったそうです。理由としては1573年に武田信玄がいなくなってしまったからです。武田健からしたら大騒動であることは確かでしょう。それでもって1577年に神尾忠重はいなくなってしまいました。その時須和は23歳でした。まさかの未亡人です。

家康との出会い

夫を亡くしたからこそ須和はどうするべきか考えていました。飯田家に戻って武田家に仕えるかどうか。それとも別の道を行くか。なんでここまで須和は迷っているか。それは武田信玄がいなくなってから武田家は衰えていて長くはないと予測していたからです。実際に長篠の戦いの後家康は今の静岡こと駿河国で領地を広げています。さらに家康は浜松城を拠点に武田家を手に入れようとまで考えていました。そのため、武田家は防戦するしかありませんでした。

そんな情勢を踏まえて須和はこのままでは神尾家は潰れてしまうと考えたことから家康に仕えることを考えました。この理由は今家康が力を付けていることはもちろんのことだが、夫の忠重から家康の話を聞いていたことから傑出した武将だとみなしたからだと思われます。

そこで1578年、須和が23歳の時に家康とご対面をしました。その時の家康の心境としては自分が人質時代にお世話になった神尾家の人間だと興味を持っていたそうです。家康の話は別記事にてしますね。

ご対面時の際の家康は須和に興味を持っていました。理由は3つあります。1つ目は話の内容です。飯田家は神尾家の状況を理解している話し方が家康は気に入ったそうです。的確な表現力が家康には刺さったことでしょう。2つ目は仕事の出来る女性だったからです。須和は家康に自分が武家の娘として乗馬や武芸をやっていたと言ったそうです。戦国時代でも女性で活発な人はいたちゃいましたがそこまで多くはないです。そのため、家康は頼もしいと感じたことでしょう。3つ目は美しいことです!肖像画見せますね!こんな方です。当時の美人はこういう美人だそうです。

要するに、先ほどの3点が揃っていたから家康は須和を認めたと言っても過言ではありません。ただご対面はここでおしまいです。側室になるのはもう少し後になってからです!

家康の側室デビュー!

須和が側室デビューするのは翌年の1579年になってからです。家康の息子秀忠が産まれる直前からたびたび須和の元に訪れていたそうです。そして、そんな時に家康は須和を浜松城に呼び出しました。内容は浜松城内に須和の屋敷を用意するということでした。しかも、ただ屋敷を用意するのではないんです。もちろん側室としての待遇もあっての招待です。おそらく家康にとっては良き人材ということから未亡人な須和より自分の側室にいた方が良いという考えがあったのかもしれませんね。

これは須和にとっては幸福でしかないことです。徳川家にいれば安泰という意味で。たとえその当時武田と徳川は対立していたとしても家を守ることが須和にとっては最優先だったことでしょう。そして側室になってから阿茶局と言われるようになりました。(ここからは須和から阿茶局に表記を変えます。)

側室後の活躍

実は阿茶局は家康の側室になった順番ははやいほうなんです。家康は結果的に16人の側室がいましたが阿茶局が側室になった時は阿茶局含めてまだ4人しかいませんでした。そのため、かなりの古株な側室だと思われます。そして、家康はその中でも1番に阿茶局を寵愛していました。どれくらいかと言いますとその当時家康の正室築山殿がいなくなってしまったのでまさに正室に相当するかと思われます。その証拠としては遠征や戦場で同行していたことですね。戦場は男の場所なのに女性が行くというのは家康自身が相当信頼していないと有り得ない話だと思われます。

ただし、家康の側室時代に悲しい出来事がありました。それは子供を作れる体じゃなくなってしまったことです。秀吉と家康が戦った小牧長久手の戦いに同行した際に阿茶局は家康と子がお腹の中にいました。実はこれが大きな要因なんです。陣中で懐妊しようとしたら流産してしまいました。それ故に子供が出来る体ではなくなってしまいました。それは家康と阿茶局の間には子供はいないということでもあります。

ですが、家康は引き続き阿茶局を寵愛しました。寵愛の仕方は徳川家の裏方としての活躍をする権利です。実は家康の息子でもあり跡継ぎでもあった秀忠は幼い時に自分の母親こと西郷局がいなくなったのもあり実母となる存在をすぐに失ってしまいました。そこで、養育係になったのが阿茶局です!阿茶局は秀忠の養育係として活躍しました!ちなみに阿茶局の息子こと神尾守世も秀忠に仕えたそうです。

このように阿茶局は家康の側室となってからの活躍っぷりは素晴らしいと家康は評価していました。また、評価していたのは家康だけではありません!家康の周りの部下達までもが評価をしていました。まあ、そりゃ養育係やら現場同行してたら周りにも注目されて当然ですよね。

女の戦いでも参戦!

阿茶局は男の戦場に同行するだけではありませんでした。実は女の戦いでも戦力として活躍していました。女の戦いとは大坂の陣の和睦です。冬の陣が終わった後、大坂の陣では休戦のために和睦をしました。ただ条件のない和睦はないので条件交渉をしないといけませんでした。それでその時の和睦がまさに女の戦いでした。理由は豊臣方の相手が淀殿の妹こと常高院だったからです。要は豊臣方が女性なら徳川方も女性ということです。ただ、その前に阿茶局は一旦大阪城まで行って淀殿と秀頼に和睦の確認に行きました。殺気しか感じない大阪城に行くのは勇気のあることでしたが阿茶局は無事行うことができたので和睦へと話が進みました。

和睦内容は徳川方が有利になるようなものです。冬の陣で大活躍した真田丸が邪魔だったのでそれを取り壊して欲しいこと。そして、城には堀があります。その堀を取ったら城は防御出来なかったので大阪城の外堀をなくして欲しいという内容でした。豊臣方には不利ですよね。普通なら怒りますよね。ですが阿茶局はなんとかひっくるめて交渉成立しました。実際は内堀も埋められたので大阪城は裸状態でしたけどね。もうこれは夏の陣は負けフラグでしかないです。

私にとっては真田丸なくなるのは悲報ですけどね。お前の感想はどうでもいいって?ごめんなさい。真田ヲタクなのでついつい言ってしまいました。

家康のラストピンチのときそばにいた

話は大阪夏の陣です。大坂夏の陣は豊臣方はもう負け確定の状況なのはさっきの話で分かりますよね?ですが、それでもめげない人物がいました。それは幸村さんこと真田幸村です!幸村さんは大阪城がオワコン状態でも徳川方のリーダー家康の首を取れば一発逆転という考えから家康の陣まで追い込みました。

それで家康の対応はタジタジです。どうやら陣が壊れたことから逃走したそうです。ここまでのタジタジさは昔の武田信玄にボコボコにされた以来だそうです。しかもこのピンチ家康にとってのラストピンチです。なぜなら大坂の陣の後家康はいなくなるからです。それで阿茶局は家康のそばにいて守ろうとしたそうです。阿茶局にとっては未亡人のとき救ってくれた人でもあり、活躍の場を与えてくれた人だからこそ守りますよね。そりゃ。

家康の死後はどうしてたのか?

1616年家康はいなくなりました。その後他の側室は髪を下ろして出家しました。ですが、阿茶局は家康の遺言上、髪を下ろすことは許されませんでした。跡継ぎである秀忠の支援をして欲しいと頼まれたようです。確かに秀忠にはお江や乳母の春日局はいます。ですが、秀忠が幼い時から育てていたのは阿茶局です。それ故にサポート係として家康は阿茶局を抜てきしました。

そしてサポート秀忠だけではありませんでした。秀忠の娘の和子までしたそうです。内容は和子が後水尾天皇との縁組が決まったとき一緒に上洛したそうです。また和子が懐妊した時も身の回りの世話をしたそうです。その功績は公家にも認められたので後水尾天皇より従一位を賜りました。ここまで来ると徳川の母と言っても過言ではないですね。

いつ出家したの?

1932年秀忠がいなくなった時です。出家した時の名前は雲光院(うんこういん)だったそうです。ただ出家生活はたった4年で1637年にはいなくなりました。83歳でした。ちなみに東京江東区に葬られたそうです。

実際にそのシーンは見れるの?

文面じゃ物足りないですよね?そんなあなたにとっておきな情報を提供します!阿茶局の活躍しているシーンを見れるドラマがあるんです!それは2016年に放映された大河ドラマ『真田丸』です!脇役ですが阿茶局の登場は多かったです!阿茶局役をやったのは斉藤由貴です!

この発言からしても頭の回転がいい女性だと感じ取れますよね?動画に関しては調べてみてください!

なんでここまで仕事できるの?

ここまでの内容で阿茶局はどんな人かと分かったと思われます!たいそう利口な方で仕事は出来ますよね?ただなんで仕事が出来るのかまでは分からないですよね?そこで、私の持論ですが見解したいと思います。

1.実家が武田グループ

ここは大きいかと思われます。阿茶局の実家は武田家の家臣の飯田家です。私的には武田家の家臣は優秀な人材が多いと思います。例えば真田ですね。それでもって武田信玄は勝つ戦しかしないや敵を味方に誘い出すという優秀さ。もう家臣も鍛えられるのは間違いないですね!

2.波乱万丈な環境

若い時は波乱万丈だったかと思われます。実は阿茶局が若い時は今川と武田と徳川がゴダゴダ状態でしたから。そんな時、阿茶局は武田家の人間として巻き込まれて大変だったかと思われます。実際に武田信玄がいなくなった時武田信玄は夢が叶わずいなくなった姿は不運であると阿茶局は思っていたそうすし。自分も大変なのに他人も大変と感じてしまう環境にいたから強くなったんだと思います。

まとめ

いかがでしたか?家康が1番に寵愛した女性は相当仕事できる女性で美しい人だと把握できたかなと思われます。そこからの私の感想は家康は何より見る目があると思いました。他にも側室はいたけど何より頼ったのは阿茶局。しかも頼り様は裏方役まで任せちゃう。それによって徳川家は長続きしたとなると家康の見る目はすごいですね。私も見習わないとと思いました。

要するに、阿茶局が輝けたのも徳川家が続いたのも家康の見る目があったからそれに尽きるということです。ですので、皆さん阿茶局のように仕事の出来る人になれば将来はいい方に向きますよ?相変わらず謎な締めですが最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう