浅井・朝倉が滅びた!姉川の戦いと小谷城の戦いとは何か?

どうも、りかちゅうです!浅井長政が信長を裏切ったという話は戦国時代が好きな人ならばご存知ですよね(朝倉家も滅びましたが)?あの時なんで裏切ったのか?自分の信念や熱意を家臣に訴えれば信長を裏切らずに済んでいると思うんですけどね。ですが、そうは行かなかったから裏切ったんですけどね。それで、浅井長政は裏切ってから初めは有利だったのものの、どんどん不利になります。そして、最終的には家ごと滅んでしまいます。自業自得ではありますが浅井長政はいい人だからこのような結末は切ないんですけどね。ちなみに滅んでしまった戦いは姉川の戦いと小谷城の戦いです。一体どのような戦いだったのか?この記事にて話したいと思います!

姉川の戦いと小谷城の戦いとは?

先ほども述べたようにこの2つの戦いは浅井家と朝倉家が滅んだ戦いです。では一体どのような戦いだったのか?

姉川の戦い

姉川の戦いとは1570年7月30日に現在の滋賀県である近江の姉川で信長・家康の連合軍と朝倉家・浅井家の連合軍の間で起きた戦いのことを指します。姉川の戦いは9時間ほどの戦いで信長の勝利となります。ですが、浅井長政はこの戦い以降4年くらい信長と争うことになります。

小谷城の戦い

小谷城の戦いとは1573年8月に信長と浅井長政との間で起こった最終決戦です。先ほども述べたようにここまでずっと2つの家は戦っていたことになります。一度は味方同士だったのに対立するなんて思ってもないことです。それで、戦いに敗れた浅井長政とお父さんのあざい久政は自害しました。また、浅井長政の嫡男も処刑されたため浅井家は滅亡しました。

姉川の戦いの経緯

姉川の戦いと小谷城の戦いの概要はこんな感じです。では一体どのような経緯で姉川の戦いに至ってしまったのか?

1.信長と浅井長政の同盟

信長は平和な時代を作りたいという考えから色々動いていました。その際に近江方面の力が必要でした。なぜなら公家の存在がいて厄介だったからです。公家は自分が上でいたいという気持ちがありますからね。そこで、浅井長政を頼りました。浅井長政は信長の考えに同意しました。ですので、同盟を組みました。

2.信長の朝倉家の対立

同盟の際に信長は浅井長政に浅井家と仲が良い朝倉家を攻撃しないという約束をしました。ですが、信長はそれを破ってしまうことになります。きっかけは足利義昭を第15代将軍なったことです。新しい将軍が決まったら各大名は挨拶に向かうものです。ですが、朝倉義景は、信長からの上洛の要求を断り続けます。それにこれに怒った信長は1570年4月に朝倉義景のいる越前へ攻めました。

3.金崎の戦いで浅井が裏切る

浅井長政は家臣に唆されて信長を裏切りました。家臣に信長は良くないと言われたそうです。信長とのことを話せばよかったんですけどね。それをしなかったから裏切ったそうです。これは信長にはピンチです。信長は朝倉と浅井の軍に挟み撃ちにされてしまいました。そこで、信長は攻略した朝倉家の金ヶ崎城で京都への撤退を決めました。これを金ヶ崎の戦いといいます。

姉川の戦いの流れ

要するに、浅井長政が裏切ったことによって信長と浅井長政は対立関係になってしまいました。そして、2人は姉川の戦いに挑みます。ではどのような戦いだったのか?

1.朝倉と浅井が優勢

信長は家康の援軍も加わりおよそ3万4000の軍勢になりました。一方で浅井と朝倉はおよそ2万1000の軍勢です。軍勢的には信長の方が多いです。それで、信長と浅井・朝倉のは姉川という川を挟んで戦います。だから、姉川の戦いなんです。まず、家康に対峙した朝倉軍が攻めかかったことで合戦は始まります。それもあって、朝倉軍は信長側の軍を圧倒しました。そして、朝倉軍は次々と信長の軍を蹴散らしていきました。

2.家康の援軍

浅井と朝倉の軍が優勢ではありました。ですが、信長と同盟関係にあった家康の援軍によって朝倉軍の勢いが弱まりました。もちろん、朝倉軍が敗れてしまったことは浅井軍にも伝わります。それ故に浅井軍も信長の軍の攻撃により戦いに敗れました。そして、自らの城である小谷城へ逃げ走ることになりました。一方で姉川の戦いに勝利した信長は横山城を包囲しました。これは浅井と朝倉の滅亡のきっかけだったともいわれています。

3.朝倉家の滅亡

朝倉義景は姉川の戦いではツムツムになりました。自ら出陣して信長軍を迎え打ったはいいものの、政務を放棄していました。そのため、朝倉義景の命を素直に聞いてくれる家臣はそう残っていませんでした。これは裸の王様状態でした。それでも、同盟相手である信玄にも応援要請を出しました。とは言えども、戦意喪失と積雪で兵を撤退させてしまったため、信玄をぶち切れました。そりゃキれますよね。しかも、信玄が病死したためもはや同盟もあてになりません。結末としては朝倉義景は一乗谷に逃げ延びたものの、自害しました。そのめた、朝倉家は滅亡しました。

小谷城の戦いの流れ

姉川の戦いによって浅井家は劣勢になったものの、4年も信長と戦います。ただ、小谷城の戦いによって敗れました。ではどのような流れで滅びたのか。

1.小谷城の攻撃

朝倉家を滅ぼし、織田軍は浅井長政のいる小谷城へ攻め込みます。小谷城は浅井家が3代が居住していた城で中世三大山城のひとつとされています。詳細を言うと本丸(兵500)の他、中丸や京極丸(兵600)、小丸(兵800)など複数の曲輪が連なっていた城だそうでうす。そのため、落城するのが困難でした。ちなみに、本丸は浅井長政が、小丸は浅井長政のお父さんこと浅井久政が守っていたそうです。ですが、秀吉が本丸と小丸の間にあった京極丸を攻撃し親子の連携を分断したことで一気に攻め込まれてしまいました。どうやら浅井側に裏切り者がいたから秀吉は奇襲に成功したと言われています。

2.浅井長政自害する

秀吉が京極丸を占領したあと小丸を攻撃したことで浅井久政は切腹に追い込まれました。一方で浅井長政は攻撃に耐えている間に嫡男と家臣を逃がし、お市の方と3人の娘を羽柴秀吉へ引き渡します。その際にお市が信長に浅井長政の助命を訴えました。そこで、信長は「城を明け渡して忠誠を尽くすなら」という条件を浅井長政に出しました。ですが、浅井長政はそれを拒否し家臣の屋敷で切腹しました。これで浅井家は滅びました。

まとめ

一応助け舟を出したんですね。信長。正直なことを言えばそれに乗ればなんとでもなれたはずなんですよね。だって浅井長政は信長のことを嫌いになったわけではないですから。むしろ、信長と共にいたかったって感じですからね。それでも、切腹を決めたのはやっぱごめんねみたいな感じにしたくなかったんでしょうね。これはお市の方からしたら苦しいことではあるとは思いますがそれをわかっての決意だと思います。これを見ても初めから浅井長政は信長につけば良かったのかなと思ってしまいました。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう