幕末戦争!戊辰戦争とはなにか?

どうも、りかちゅうです!江戸幕府とは大政奉還で終わったと思ったら違うんです。なんと、大政奉還では済まされず幕府軍と新政府軍が戦った戊辰戦争が勃発しました。結果はもちろん新政府軍の勝ちです。じゃないと明治維新につながりませんからねwwwwww。このように、流れとしては簡単ではあります。ですが、詳細としては色々ドロドロしているところはあります。実は出来レースですからね?あの戦争?ということで、この記事にて戊辰戦争の詳細や裏の話をしたいと思います!

戊辰戦争とは何か?

まず戊辰戦争とはどう言うものなのかよと言いたくなる人もいるかと思われます。ですので、戊辰戦争の概要から話したいと思います!戊辰戦争とは、1868年1月の鳥羽伏見の戦いから1869年5月の箱館戦争までの争いのことを言います。戦地が南からどんどん上に行ってる感じがしますね。これは幕府軍がどんどん北に逃げていったからこういう経緯になりました。を言うと大政奉還や王政復古の大号令では江戸幕府は終わることは出来ませんでした。むしろ、対立してしまいました。要は、戊辰戦争は幕府側と薩長側(新政府)の戦争と思えばいいです。

戊辰戦争の背景

以上が戊辰戦争の概要です。さて、概要に対立というワードがあったかと思いますがどういった背景で対立したんだよとなりますよね?ですので、対立の経緯について話したいと思います!

1.長州征伐の失敗

長州藩は第一次長州征討後に幕府にちゃんと従いますと言いました。ですが、その約束は破りました。なんか、高杉晋作らが長州藩の中心となって幕府に歯向かったそうです。そこで、幕府は再度長州藩を攻撃しました。ですが、薩長同盟を結んでいたののもあって前よりも強くなり長州軍が勝ちました!さらに、14代将軍徳川家茂が急死したため幕府は戦いをストップしました。これにより、幕府の弱さがより露呈されちゃいました。

2.大政奉還と王政復古の大号令

薩長は公家の岩倉具視らと手を組み、討幕の密勅をもらうことに成功しました。ただ、その事実を知った15代将軍の徳川慶喜は大政奉還を行い幕府をなくし朝廷に政治の権利を返しました。それにより密勅の効果はなくなりました。

でも、これで終わりではないです。実は徳川慶喜は幕府がなくなっても自分が諸藩のリーダーとして立ち続けるために大政奉還を出した感じです。それ故に薩長や岩倉具視はこれを阻止するために明治天皇に王政復古の大号令を出させます。それによって徳川慶喜ないない新政府ができた感じです。新政府のメンツはもちろん薩長メインです。

3.徳川慶喜をどうするか?

王政復古の大号令が出された12月9日の夜、薩長側は会議をしました。内容はもちろん徳川慶喜の力をどうやって奪うかです。ただ、土佐藩主山内豊信や越前藩主松平慶永らは徳川慶喜を追い詰めることには反対していました。一方で薩摩の大久保利通や公家の岩倉具視などは徳川慶喜を追い詰めようとします。結果的には大久保利通、岩倉具視らが勝利したことから徳川慶喜に内大臣を辞任し、すべての領地を朝廷に返せと要求しました。だからって、それをよしとしないメンツはいます。特に幕府側からしたらそうですよね。それ故に、旧幕府と新政府が武力でぶつかることになります。

戊辰戦争の流れ

戊辰戦争が起こったきっかけとしてはこんな感じですね!では、戊辰戦争はどのような流れで起こったのか?

1.鳥羽・伏見の戦い

会議のことを聞いた徳川慶喜は、これを拒否し大坂城に入りました。そこで、幕臣や会津藩・桑名藩の兵、約15000人が大坂から京都まで向かいました。そして、1月3日の夜に鳥羽・伏見に両軍が衝突しました。ちなみに薩摩・長州を主力とする新政府軍は4000人ではありました。ですが、装備は整ってはいました。また、1月4日に天皇の旗である錦の御旗を新政府軍が掲げたことで旧幕府側が激しく動揺し、淀藩・津藩が新政府軍に寝返ったことで幕府軍は負けました。

2.江戸開城と上野戦争

京都を出発した新政府軍は、東海道・中山道・北陸道の3つに分かれました。それで、1868年3月13と14日に江戸の薩摩藩邸で西郷隆盛と勝海舟が最後の交渉を行います。交渉した結果、徳川慶喜は徳川慶喜は江戸城を明け渡して謹慎することが決まったことから江戸城は燃やされずに済みました。

ただ、旧幕臣が江戸開城に賛成したわけではないです。それ故に一部の者は彰義隊を結成し、上野の寛永寺に立てこもりました。しかし、負けました。その結果、関東地方は新政府の支配下に置かれました。

3.北越戦争と会津戦争

北陸道を進む新政府軍は強敵に行く手を阻まれました。なぜなら、家老河合継之助率いる長岡藩の影響が大きかったからです。長岡藩は奥羽越列藩同盟の支援を受けて粘り強く抵抗したそうです。しかし、兵力に勝る新政府軍の前に長岡藩は負けてしまいました。

ただ、粘ったのは長岡藩だけではないです。会津藩も粘りました。ちなみに会津藩は新撰組の支配下だったことから幕末に薩長と激しく対立したそうです。薩長の恨み背負い隊って感じですね。それもあって、会津藩を含む奥羽越列藩同盟軍と新撰組は白河口の戦いなどで善戦します。ですが、母成峠の戦いに敗れたことから降伏に至りました。

4.五稜郭の戦い

あの函館にある五稜郭ですよ!旧幕臣の榎本武揚らは蝦夷地五稜郭を占領しました。そして、松前を攻め落とし蝦夷共和国の建国を宣言します。それもあって、新政府は諸外国が戦争に口を出してくることを恐れ、五稜郭に軍を差し向けました。その際に新政府軍は函館湾での海戦や周辺地域を攻め落としました。また、榎本に降伏を迫ります。ちなみに、新撰組の副長だった土方歳三も箱館近郊での戦いで戦死したそうです。そして、1868年5月、榎本らは降伏し戊辰戦争は終わりました。

戊辰戦争は出来レース?

出来レースってどういうことだよって?実を言うと新政府軍側が勝つようになっていたんです。なぜなら、とある組織側が日本を乗っ取るために幕府を潰し、新政府軍にあれこれさせたかったからです。ただ、これだけではよく分からないと思います。ですので、今から詳しく話しますね!

1.新政府軍はイギリス、幕府軍にはフランス

まず戊辰戦争とは海外の支援がありました。その大元はロスチャイルド家です。ロスチャイルド家とはユダヤ系の富豪です。今でも色々牛耳っています。

ちなみに、どの国が支援したかと言うと見出し通り新政府軍にはイギリスのロスチャイルド家、幕府軍にはフランスのロスチャイルド家です。それで、イギリスもフランスも何をしたんだよと思いますよね?簡単にいえば高利貸しと武器を売ったことです。戦争にはお金と武器が必要です。そのためにイギリスとフランスはお金を貸し付けたり武器を売ったりしました。

2.幕府軍にはポンコツな武器を!

この仕組みじゃどう出来レースなのか分からんよって?そうですよね。実を言うとフランスは幕府軍にポンコツな武器を売っていました。どう言うことかと言いますと南北戦争に使った武器を中古で売ったことです。もちろん、綺麗に磨いて新品にはしましたよ?一方でイギリスは新政府軍に新品の武器を売りました。もうこれは新政府軍の方が有利なので勝ちます。このような形で幕府軍は負けてしまいました。中古品売り付けてるなんてまさかとは思いますよね。

3.ロスチャイルド家の目的

目的は金儲けです。まず双方にお金を貸すことで金利という利益を得ることができます。さらに、戦うための武器まで売ればもっとお金を儲けることができます。これが戦争ビジネスってやつです。しかも、二股支配のため両方からがっぽりです。ただ、それだけではあります。そうすることでロスチャイルド家は新政府軍を借金の返済、武器の供与によって永久に支配することができます。いわゆる操り人形ってやつですね。一方、幕府側も借金まみれでツムツム状態です。これはもう日本の終わりですね。先ほども言ったように幕府を倒し日本を乗っ取られたとはこういうことです。

 

まとめ

幕末にロマンはないです。これは断定します。まず、家康が頑張って鎖国したのは海外に乗っ取られたくなかったからです。もし家康が頑張ってなかったら今の日本はないです。そんな理由があるのに日本は開国してしまいます。からの、アンチ幕府勢を洗脳し見事に乗っ取りました。これが現実です。詳しくは「維新の悪人たち」を見てください!

この事実を知った私は家康の頑張りが消えたなと思いました。ただ、乗っ取った側が上手いなと思う点はあります。それは組織崩壊してる時に漬け込んだことです。おそらく、家康がいた時代にそんなことしても無理です。ですが、幕末の時はもう幕府の権威もないです。それ故に乗っ取れたのかと思います。それ故に戦略としてはなるほどとはなります。要は幕府が廃れたことで乗っ取られたのかなと思います。また、その一例が戊辰戦争なのかなと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう