渋沢栄一の妻!渋沢千代とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!渋沢栄一の奥さんのことはご存知ですか?まあ、青天を衝けを見ている人ならば千代さんでしょとなると思います(見てない人に関しては誰だよとなる人はいるかもしれません)。そうです。その通りです!後ほど話しますが2人は生まれた時から一緒と言っても過言ではないです。それもあって、千代は渋沢栄一にとって人生のパートナーであります。実際に女性でそこまで一緒にいた人なんていないですからね。また、渋沢栄一はこの世のお偉いさんです。きっと色々あったと思います。ですので、この記事にてどんな人だったかなついて話しますね!

渋沢千代のプロフィール

まずは千代さんのプロフィールからスタートしますね!

名前 渋沢千代←旧姓は尾高です

生まれた年 1841年

出身地

武蔵国榛沢郡下手計村

今の埼玉県深谷市下手計です。

没年 1882年7月14日

備考

・渋沢栄一とは従兄弟関係でした。

・名主の子でした。

渋沢千代の人生

以上がプロフィールです。女性故にデータがそこまでなくて申し訳ありません。やはり、まだ女性のデータが少ないのが現実ですね。まあ、そんなことはさておき、どんな人生を歩んだのか?

1.名主の子として生まれる

千代は、1841年に名主・尾高保孝とやへの娘として武蔵国榛沢郡下手計村で生まれました。ちなみに尾高家は米穀、塩などの商売をはじめ、染料に使う藍玉の製造と養蚕をしていたそうです。渋沢家と似ていますね。また、やへは渋沢一族の血筋で、渋沢栄一のお父さんのお姉さんでもあります。となると、千代と渋沢栄一はいとこになりますね。また、千代には惇忠という兄がいます。その方は実業家として有名な人物です。ちなみに若い時からじ自宅にて「尾高塾」を開いて中国の書籍などを教えていたそうです。

2.18歳で渋沢栄一と結婚する

千代が18歳になった時に渋沢栄一と結婚しました。気丈な性格だった千代多忙な渋沢栄一に代わって家を守っていたようです。これは青天を衝けを見れば分かるかなと思われます。また二人が結婚した年は、日米修好通商条約を結んだり、井伊直弼が安政の大獄を始めたりするなど激動の年でもありました。それもあって2人の結婚生活も色々変化はありました。

3.渋沢栄一と離れて生活する

結婚して2人で仲良くしていた感じでもないです。むしろ、渋沢栄一は尊王攘夷にハマってあれこれしていた時期もありました。また、色々ご縁があって幕臣にもなりました。このような状態からしばらくは一緒には暮らさず離れ離れでした。ちなみに、千代は渋沢栄一が幕臣でいた頃は渋沢家の手伝いをしていました。これは青天を衝けを見れば分かりますね。ちなみに渋沢栄一は心変わりしないようにと千代に手紙を書いていたそうです。

4.千代の最期

明治になってから一緒に暮らすようにはなります。とは言えども渋沢栄一も忙しいですから離れて暮らす時もありますけどね…。とは言えども、前よりかは一緒にいることは増えました。ただ、その当時コレラが流行っていました。それで、千代はコレラに感染してしまい、1882年7月14日にいなくなってしまいました

渋沢千代がいなくなったあとの渋沢栄一

千代がいなくなった後は唖然として何も手につかなかったそうです。偉い立場の人がそんな感じでいいわけないですが相当のショックだったんですね。そう考えると渋沢栄一は女遊びはしていたものの、長年のパートナーは千代だけだったからこそ愛はあったのは事実ではありますね。だったら女遊びするなよとは思いますが…。

ただ、ずっと引きずるわけにもいかないです。それで、千代がいなくなった翌年に伊藤兼子という女性と再婚しました。ちなみに、その方は武蔵国川越の大富豪だった伊藤八兵衛の次女で渋沢栄一の結婚する前に他の人と結婚していました。ただ、事業が失敗した時に前の旦那さんと離婚をして芸者として働いてた時に渋沢栄一とご縁があったそうです。

渋沢千代の性格

以上が千代の人生です。渋沢栄一というお偉いさんの奥さんだからこそ色々あったのは伺えますね。では、そんな千代はどんな性格だったのか?

1.気が強い

逸話ではありますが気が強かったそうです。10歳の頃に行商人が絹の布地を売りに来ました。そのさいに綺麗な布地を眺めていると、親が欲しくなるだろと聞きました。それで、千代は怒りながら無闇やたらと欲しがるものかと言い返したそうです。おそらく、物をやたらと欲しがらず、耐えるような性格なんだと思われます。また、お兄さんが四書五経を教えている講義に耳を傾けていた時にお兄さんがなんでそんなことを知っても意味ないみたいなことを千代に言いました。その際に千代は弱気にならないで「女だろうと人は人です。人として道理を知りたがるのは当然でしょう。」と言い返しました。このように、黙らず何か言い返す精神があった人ではあるのは明らかかと思われます。

2.渋沢栄一を愛で縛らない

千代は渋沢栄一を愛で縛りませんでした。それもあって女遊びしてた渋沢栄一ともやっていけたのかもしれませんね。もし、縛るような人では破綻ですよ。まあ、そんなことはさておき、具体的なエピソードは手紙です。渋沢栄一は千代に文を出しても返事が来ないと言っていました。なんでかというと千代の気遣いです。どういうことかと言いますとたとえ夫婦であっても愛情を出さないことがよいということです。それもあって、あえて三通に一度出す程度にしていたそうです。なぜならば、あまりに手紙を書くと、寂しく心弱い女と侮られてしまうからだそうです。ここにも気の強さが出ていますね。

でも、なんでそういう風な考えがあったのか?それは玄宗と楊貴妃が愛に溺れて戒めを受ける話を見て熱愛は戒めるべきだと考えていたからかと思われます。そんな女性って世の中にそういないですよね?

疑問に思うこと

渋沢栄一って女好きじゃないですか?実際に遊びまくってらしいですし?軽く調べましたが若い頃から遊んでいたと。また、大阪に行った時なんてくにという妾もいただけでなくその後東京で同棲したわけですよ?渋沢栄一の女癖はどんだけだよと思います。しかも現実は吉沢亮くんみたいにイケメンじゃないのによく遊んでたなと思っちゃいますwwwwwww。また、今の時代ならば浮気だの不倫だの騒いで当然です。

だからこそ、千代側は内心どう思っていたのか気になります。少なくともプラスな気持ちではないでしょうね。確かに、束縛するような人ではないのは分かりますよ?ですが、執拗に咎めなかっただけで複雑ではあったとは思います。実際に青天を衝けでもため息ついていたシーンはありましたしね。もし、私が千代の立場だったら女嫌いだけあって女側に恨みを持つかと思われます。そして、渋沢栄一に対しては束縛はせず圧をかけてなんとかすると思います。

まとめ

個人的には渋沢栄一にとってパートナーとして相応しいのは千代なのかなと思っちゃいますね。なんというのか、気が強くて自立してるところとか。お偉いさんの妻として必要なものを持っている気しかしません。また、一途なようで一途ではない(千代のことを失いたくないという意味で)渋沢栄一のことを見捨てないでいれるのは千代だからなのかなと思われます。このようなことを踏まえるとできた女性なんだなと改めて思いました。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう