日本だけでは終わらない!朝鮮出兵とは何か?

どうも、りかちゅうです!秀吉は天下統一を果たしました。信長から頼まれていたことをちゃんとやれたということでもありますね。信長は秀吉に天下統一して欲しいという考えがあったそうです。これは信長からしたら嬉しいことでしょうね。ただ、秀吉は日本を統一するだけではありませんでした。なんと朝鮮出兵をしました。無茶振りするなよと思った方はいるかもしれません。歴史的に見ても日本がマイナスな感じで終わっていますもんね。しかも、そのシーズンに秀吉はいなくなっています。要するに、朝鮮出兵は無茶振りと言われているものではあります。ですが、本当は違います。ある国を救うためにしたことです。ではどういった戦いなのか?この記事にて話したいと思います!

朝鮮出兵って何?

朝鮮出兵は有名ではあります。歴史の教科書にも載っていますからね。ただおさらいとしてどのようなものだったのかについてから話したいと思います!

朝鮮出兵とは、文禄の役(1592年~1593年)と慶長の役(1597年~1598年)を2つの戦のことを指します。天下統一を達成した秀吉は次に明の征服を目指すために配下の諸大名による遠征軍を組織しました。ですが、 進行通路である朝鮮に服属を要求するものの拒否されました。そのため、遠征軍が朝鮮攻略を開始しました。ただ、停戦の講和条約を結んだため一旦は停戦となります。ですが、その要求が守られなかったからなのか日本側は再度攻め込みました。とは言えども、1598年に秀吉が亡くなったため戦争は終結することになります。

朝鮮出兵が起きた経緯

朝鮮出兵の概要はこんな感じです。ではなんで朝鮮出兵が起きたのか?これから話したいと思います!

1.明の侵略

秀吉がなぜ大明帝国への侵攻をしたいと思ったのかの正式な理由はわかりません。説としては信長が考えていた中国侵略の構想を実現しようとしたという説や征服・領土拡大目的の説が有力ではあります。ただ秀吉は明の侵攻には長い間の準備期間があります。少なくとも関白に就任した1585年にはその考えはありました。となると、思い付きではないことがわかります。

2.朝鮮側の反応

李氏朝鮮は日本の対馬を経済的な側面から支配していました。そのため、対馬を介して日本と交渉することとなりました。その際に秀吉は明国征服のために朝鮮国を属国にしようするため対馬を介してその交渉を図っていました。ですが、交渉は決裂してしまいます。また、文禄の役直前の1591年には朝鮮通信使より国王へ日本が攻め込んでくる可能性についての報告がありました。ですが、朝鮮朝廷内の政権争いの中でその報告は無視されることになりました。そのため、李氏朝鮮は戦争の準備が出来ていません。これは朝鮮にとっては戦争開始後に大きく苦しむこととなります。

3.戦の準備

1591年より本格的に遠征の準備が始まりました。日本の次はという考えに至ったのかと思われます。秀吉はまず諸外国に大船、軍資金、兵糧を準備させました。その際に拠点となる城として肥前国に名護屋城の築城を行います。ちなみに、この城に総監軍として10万の部隊だけでなく出征軍15万と合わせて25万の部隊を準備しました。これは相当な人数です。なぜなら、この当時日本の総兵力は50万人だからです。半分程度は招集するなんてよっぽどのことがない限りしないかと思われます。

朝鮮出兵の戦況

以上が経緯です。では実際に戦った際にどんな感じだったのか?

1.文禄の役

日本は名護屋城に陣を置き15万人の出征隊によって朝鮮出兵は始まりました。総大将は宇喜多秀家が務めました。宇喜多秀家は五大老の中でも秀吉の明国征服へ真っ先に同意を示した人物でした。また、出征隊の七番隊の大将も努めました。出征隊とは一から九番隊まで編成され日本水軍らと共に韓国・釜山へと上陸します。それでその出征隊は1991年4月12日に上陸し2日程度で釜山周辺を攻略しその後一気に進軍し、朝鮮国の都である漢城へ行軍し1991年4月21日で陥落させました。かなり早いテンポで潰しましたね。

2朝鮮水軍の勝利

朝鮮水軍を率いた李舜臣の部隊によって玉浦の戦いで勝利を収めました。朝鮮軍の船は強固な水軍であったのに日本が十分に準備していなかったから朝鮮軍は勝てたのだわないかと言われています。それもあって、李舜臣はこの活躍で今も韓国などでは国民的な英雄とされています。一方日本軍は各方面軍による制圧に取り掛かりました。しかし、1591年7月に入り明軍が参戦します。戦闘では日本側が打ち破りますが、いったん進撃を平壌で停止して防備を固めました。また、この時期に二番隊の加藤清正は満州ルートからの明国攻略を検討するためにオランカイとの戦闘を行います。難だという判断だったようです。その後本格的に明軍が参戦し碧蹄館の戦いを行いました。結果は日本軍の勝ちです。これにより文禄の役は明国との講和の影響で休戦となりました。

3.慶長の役

講和により一時的な停戦状態となっていました。ですが、秀吉の考えていた講和要件が受け入れられていないことが発覚しました。詳細としては明より日本国王の称号と金員の授与をする予定だったものの、朝鮮王子が来日しなかったそうです。そこで、秀吉は和平交渉が決裂すると思い14万人ほどの軍勢を出兵させました。総大将は小早川秀秋が務める事となりました。慶長の役も日本が順調でした。ですが、1598年に秀吉がいなくなったことで状況が変わります。本来ならば6万人超の兵士を朝鮮半島に残して1599年に三度目の出兵をする予定でした。ですが、秀吉が亡くなったため日本側の撤兵への動きが加速します。そのため、秀吉の死後の戦は日本が負けてしまいました。また、秀吉がいなくなったことで朝鮮出兵はストップしました。その際に家康の委任を受けた宗氏によって和平交渉が進みました。

秀吉が朝鮮出兵した本当の理由

以上が朝鮮出兵の流れです。ただ、秀吉はあることが目的のために朝鮮出兵をしました。どういうことだよって?今の沖縄こと琉球のヘルプ要請がきたからです。琉球は日本側の立場です。それで、琉球が明や朝鮮から侵略を受けていました。そこで、助けるために朝鮮出兵をしたそうです。ただ、その時に秀吉がいなくなったので中途半端な形にはなってしまいましたね。

まとめ

はじめのうちは侵略のために朝鮮出兵をしたのかと思っていました。ですが、そうではなく琉球を助けるためのものだったとは思ってもいませんでした。ただ、これを見ても明や朝鮮は昔から日本を侵略する場所でもあったのかなとは思ってしまいました。それは今も変わってはいませんね。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう