源平合戦のラスト!壇ノ浦の戦いとは何か?

どうも、りかちゅうです!源平合戦の最後の戦いといえば何か分かりますよね?それは壇ノ浦の戦いです。平家物語に詳しい人ならばどういった描写かなどは分かるかなと思われます。私は中学の頃に学習したので懐かしいと思うばかりです。おそらく、皆さんからしたら源氏が圧勝したというイメージがあるかもしれません。私も今までそうだと思っていた。ですが、違うんです。平家は海に強かったのもあって手こずりました。ただ、運が源氏に回ったことや義経の戦略の素晴らしさの影響で源氏が勝ちました。このように、最後の最後まで読めない戦いでした。ですので、今から詳しく話したいと思います!

壇ノ浦の戦いとは何か?

壇ノ浦とはどんな戦いだったのかに関してまずは軽くまとめますね!壇ノ浦の戦いとは平安時代の末期に現在の下関海峡で行われた源氏と平家の最終決戦のことです。時は1185年です。平家物語では戦いの前に源氏の誰かが日の丸の扇子を射留めてみんなで拍手した描写がありますね。あの当時の日本って戦いでピリピリしているのが普通なのにもかかわらずそういうのがあるんです。不思議でしょうがないです。それで、もちろん平家は敗北し滅亡しました。そして、これによって治承・寿永の乱こと源平合戦はおしまいです。長いようで短い戦いなのかなと思っています。鎌倉殿では展開が早いのであっという間って感じがしましたが。

壇ノ浦の戦いが起きたきっかけ

以上が壇ノ浦の戦いの概要です。では、なぜ壇ノ浦の戦いが起きたのか?

1.清盛が死んでからの都落ち

水鳥が飛んだだけなのに平家が源氏が襲ったと勘違いして一目散した富士川の戦いで平家が負けた後は劣勢に追い込まれました。その影響で平家討伐の動きが本格的になりました。平家側からしたらツムツムです。そして、1181年に清盛がいなくなりました。その後は平宗盛がリーダーとなり平家を動かしていくことになりました。そして、清盛の死後から2年後信濃で挙兵した木曽義仲が加賀と越中の境で倶利伽羅峠の戦いで平家を撃破し、京都に上洛します。一方で平家は義仲に押される形で京都から脱出しました。その際に安徳天皇を連れて西へと落ち延びていきました。俗に言う都落ちです。

2.一ノ谷の戦いと矢島の戦い

義仲の上洛によって平家は都落ちをすることになりました。ですが、義仲は乱暴者で京都の人や公家からあまり好かれておらず最終的には義経によって討伐されてしまいます。その間に平家はなんとか京都にほど近い一ノ谷(今でいうの神戸市)に本拠を置くまでに回復しました。だからって、義経はこんなことを見逃すわけないじゃないですか!それ故に義経は家臣の弁慶とともに一ノ谷へと向かい鵯越という崖の上から馬で奇襲を仕掛ける「鵯越の逆落とし」を決行しました。戦に慣れていなかった平家の軍は義経の奇襲攻撃に大混乱。再び安徳天皇と三種の神器を持って讃岐の屋島に逃げます。

もちろん、義経は屋島にも侵攻します。しかも、義経は海から攻めるように見せかけておいてまさかの陸からの奇襲をしました。流石の天才義経ですね。もちろん平家は大混乱です。だからって、諦めずに悪あがきます。なんと、平家は西に西に逃げて壇ノ浦で激突することになるのです。

壇ノ浦の戦いの流れ

以上が壇ノ浦の戦いの経緯です。では、戦いはどんな流れだったか?

1.めげない平家

屋島の戦いで敗北した後の平家の本拠地は下関市近くの彦島に移ります。ですが、平家の九州は源範頼によって攻略されました。さらに、屋島を制圧した後の義経もどんどん攻めます。平家もここで降伏しても手遅れです。平家は壇ノ浦に水軍を構えて源氏の軍を待ち受けます。そんな中でも平家も勝算がありました。元々平家は清盛の父である忠盛が瀬戸内海の海賊を討伐してから発展していった家なので水軍には自信があります。それもあって、最初の方はやはり水軍に慣れている平家の軍が力を見せて源氏を圧倒しました。。壇ノ浦近くの潮の流れに乗って押し返していきます。平家も勝てるかもみたいなこと気持ちはありました。ですが、後半からその歯車はズレて行きます。

2.潮の変わり目

悪あがきに成功する平家。しかし、昼頃になってくると潮の流れの向きが変わっていき、なんと最終的には潮の流れが逆転しました。となると、源氏が有利な方向になります。それにプラスして義経がイライラしていたのかもしれませんがその当時戦のルールで禁止されていた船の漕ぎ手に向かって矢を集中砲火しました。もうここまでしたらどんどん平家の漕ぎ手はやられていきます。平家の水軍は大混乱です。

3.安徳天皇の入水 

ここまできたら悪あがきも無理です。そう思った平家の主な武将は船から海に入水しました。ちなまに、平知盛は敵を抱えながら海に飛び込むという壮絶な入水をしました。さらに、安徳天皇もこのままでは源氏に捕まってしまうという理由で安徳天皇の母である二位尼とともに入水しました。その際に三種の神器を抱え込みながら入水しました。二位尼は「海の下にも都はあります」と安徳天皇に言って運命を共にしたそうです。

清盛の頃にあれだけ隆盛を迎えていた平家はこの戦いにて滅亡しました。平家物語の「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」とはこういうことですね。

源氏が唯一失敗したこと

源氏は勝ちましたが唯一失敗してしまったことがあります。それは三種の神器の奪還に失敗してしまったことです。安徳天皇と二位尼が壇ノ浦の戦いで入水したことはわかりますよね。それで、二位尼はこの時、三種の神器をも抱えたまま海へ沈みました。もちろん、源氏は壇ノ浦の戦いの後すぐに三種の神器捜索を始めましたよ?ですが、三種の神器の1つである「草なぎの剣」だけは見つけられませんでした。でもなんでそれがやらかしたことなのか?それは頼朝は三種の神器を最強の交渉カードにすることで後白河法皇との政治交渉を優位に進めようと考えたからです。もちろん、見つけられなかったのでこの策は使えなくなりました。

壇ノ浦の戦いの後

その後は源氏は仲良く平和にやったわけではないです。頼朝と義経はバトル関係になります。流れとしては壇ノ浦の戦いが終わった後に義経は平家の総大将こと平宗盛を捕まえ鎌倉に向かいます。そこまでは別に何も異常はないです。ですが、頼朝は義経のその態度が気に入らなかったんです。なぜなら、このままでは頼朝に変わって義経が源氏のトップになるのではないのか恐れるようになったからです。頼朝は今の時代でいう監督です。現場の成果は義経です。頼朝側からしたらそりゃ焦ります。しかも、義経が京都に帰ってきたときに検非違使という役職に任命されたことによって頼朝の義経に対する敵対心は強くなりました。本来ならば頼朝の許可が必要ですからね。

この事実に頼朝は激おこ。義経を鎌倉に入れませんでした。一方義経は仕方なく京都近くの近江で平宗盛を斬首し、その後は平泉に逃げます。この後はどうなるかに関しては皆さんご存知かと思われます。

まとめ

とりあえず、源氏って運がいいですよね。鎌倉殿でも頼朝は運のいい男だと言われていましたが最後の最後に運を味方にしたのはすごいと思います。今回の運は頼朝ではなく義経ですけどね。海の潮なんてどうすることもできませんからね。また、いくら違反だといえ義経の策略もなかなかです。天才武将とはこういうことですね。このように、接戦であっても最後は勝てたからこそ源氏の時代になったのかなと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう