豊臣のプリンス!豊臣秀頼とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!秀吉にはなかなか子供ができなかったのに茶々との間に2人の子供ができました。絶対にお父さんは秀吉ではないですよね?だってあいつ今まで子供がいなかったんですよ?ですが、1人目は3歳でいなくなってしまいました。秀吉からしたら悲しいものですよね。そんな中、2人目が生まれました。その名前は豊臣秀頼です。歴ヲタならば知っていることでしょうね?なぜなら、何かと登場することがあるからです。私的には大阪の陣で若くしていなくなったのにもかかわらず人生のイベントが多い人だなと思っています。ですので、この記事にて話したいと思います!

豊臣秀頼のプロフィール

まずは秀頼のことを知るためにも簡単なプロフィールから見ていきたいと思います!

名前 豊臣秀頼

生年月日 1593年

没年 1615年(享年23歳)

出身地 摂津国

備考

豊臣のプリンスです。誰が見ても坊ちゃんです。ですが、関ヶ原で家康が勝ってからは立場が徳川側となりました。そのため、大阪の陣で家康と戦ったものの敗れ自決しました。

豊臣秀頼の人生

以上は秀頼のプロフィールです。短命ですね。大阪の陣で自決したとなれは短命なのが当然ですが。ただ、短命でも何かしらのイベントはありました。ですので、彼の人生について話しますね。

1.生い立ち

1593年8月3日に秀頼は大阪城にて生まれました。お父さんは一応その当時57歳の秀吉でお母さんは茶々です。50代のおっさんと肉体関係を持つなんてドン引きですね。ちなみに秀頼の幼名は捨と言います。理由は1591年に僅か3歳で亡くなった鶴松の幼名は棄だったんですよ。そのため、秀頼にはと名付けたそうです。ちなみに乳母は3人いました。豪華ですね。メンバーは宮内卿局、右京大夫局、正栄尼だそうです。また、茶々の乳母であった大蔵卿局が養育係を務めました。

2.秀次との関係

秀頼のお兄さんかと鶴松が亡くなった時点で秀吉は関白の座を自分の甥こと秀次に譲り後継者として考えていました。ですが、秀頼が生まれてからは展開は変わってしまいました。まず当たり前ですが豊臣秀吉は豊臣秀次から関白を豊臣秀頼に継承させるように考え始めました。まず秀頼が生まれて2ヶ月後の1593年10月には前田利家を仲介人にして秀頼と秀次の娘(槿姫と言うそうです。その子は2歳だそうです。)を早くも婚約させています。もうぶっ飛んでいますね。次に日本を5つに分けてその4つを秀次に残りの1つを秀頼に与えると秀吉は公言しました。

ですが、秀吉は秀頼にどうしても跡を継がせたいと考えていました。また、秀次は秀吉に誤解されてされてしまったため1595年7月に秀次から関白職を奪って自刃させました。もちろん秀次の妻女や妻妾子なども大半が処刑されています。これは真田丸で描かれていましたね。また、秀吉は諸大名に秀頼に忠誠を誓約する起請文への血判署名をさせたため秀頼は秀吉の後継者としての地位が確定しました。

3.秀吉の死後

1598年8月に秀吉がいなくなりました。そして、1599年1月に秀頼は伏見城より大坂城に移りました。その後はみなさんご存知の関ヶ原の戦いですね。その時秀頼は西軍側であっても参加してません。むしろ、毛利輝元と一緒にいたそうです。総大将なのに現場にいない。なぁぜ?なぁぜ?って感じですね。結果はもちろん東軍の勝利です。

そのため、豊臣の立場はなくなり実権は家康に移ります。じゃあ領地も減ったのって?そうですよ!まず家康は日本全国に分散していた豊臣家の所領約220万石のうち豊臣の諸大名に管理を任せていた分を奪い東軍の人たちに与えました。一方豊臣家の領地は摂津、河内、和泉の直轄地65万石のみを領する一大名となってしまいました。これは茶々のプライドが許せませんね。

4.千姫との結婚

ただ、家康は豊臣を潰したいという欲はまだありませんでした。その証拠として二年後の1603年に11歳になった秀頼は家康の孫の千姫と結婚しました。ちなみに千姫は7歳だったそうです。この結婚は秀頼を補佐する体制を整えるためのものだそうです。ちなみに家康は1611年に19歳になった秀頼を二条城に呼んで臣下の礼をとらせたそうです。

5.大阪冬の陣

秀頼と千姫が結婚したことによって少しは落ち着きました。ですが、豊臣と徳川の戦いは勃発してしまいます。1614年に起こった方広寺鐘銘事件が元凶ですね。豊臣が徳川を滅ぼそうという匂わせをしたという事件ですね。家康はこれを口実に豊臣家を滅ぼすことを決意し、大坂冬の陣が起きました。もちろん大名は豊臣の味方をしません。そこで、秀頼は関ヶ原の戦いで改易された真田幸村、後藤又兵衛、長宗我部盛親、毛利勝永、明石全登などの浪人武士を集めて大阪城に入城させました。大坂冬の陣では幸村さんが奮戦したことで幕府勢を撃退していたものの、徳川勢は昼夜を問わず大阪城に砲撃を加えました。それに怯えた茶々は和睦を主張し家康が提案した和睦に応じました。

6.大阪夏の陣

和睦によって大阪城は外堀を埋める事となったものの徳川勢が勝手に内堀も埋めたり城郭の一部も破壊したりしました。もちろん秀頼は講義をします。ですが、家康は浪人の総追放や国替えを要求したもののらそれを拒否し堀を掘り返し始めたため1615年に大坂夏の陣が始まりました。もう豊臣方は絶望です。野戦で頑張ったものの豊臣は滅亡してしまいました。その際に秀頼は茶々と共に自決しました。享年23歳です。その際に千姫は大阪城から逃しました。

豊臣秀頼のエピソード

秀頼は短命であったもののエピソードはあります。ですので、そのエピソードを今から話しますね!

1.大柄だった!

豊臣秀頼は大男でした。身長は197cmほどあったと言われ、当時では圧倒的に飛びぬけた背の高さだったと言われています。また、体形はゴツかったそうです。これは小柄な秀吉とは正反対ですね。140cmしかなかったとも言われています。遺伝的にはあれれと思いますよね?また、秀吉の側室は20名近くいたと言われていますが、淀殿以外は1人も生まれていません。そのためお父さんは秀吉ではないと言われています。この話は後ほど話しますね。

2.家康もビビった大柄様

家康と秀頼が大坂城でご対面した時に家康はあまりにも恵まれた体格に圧倒されたと言われています。だって身長は190cm以上はあるだけじゃないんですよ?体重は約161kgもあったそうです。これは言い方悪いですがデブですねwwwwwww。そのため、久しぶりに成長した秀頼を見た家康はこのままではこのままでは徳川家も危ないと感じたそうです。

本当に秀吉の子?

秀吉は女が好きというのは有名ではありますね。そのため、たくさんの側室がいました。それなのに子供ができませんでした。これは秀吉の身体に問題がありますね。それなのに、茶々には子供ができるなんて違和感しかないですね。というか、私が茶々ならばあんなに年が離れている秀吉と肉体関係持ちたくないですね。まあ、そんなことはさておき、この違和感の影響で秀吉以外の人との子供なのかと言われています(3歳でいなくなった鶴松にも同じことが言えますね)。有力なのは大野治長という人ですね。

まとめ

お坊ちゃんですね。ですが、そこまで欲はなかったそうです。なんか茶々ほどプライドは高くなかったそうです。むしろ、滅びる時にもういいよみたいな感じだったそうです。これを見ても秀頼はもう時代は徳川になるなと思っていたのかなと思っています。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました