夏目漱石の先祖?夏目広次とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!夏目漱石はご存知ですよね?そりゃ有名な作家ですからと思うことでしょう。ちなみに夏目漱石の聖地なんですが私の家に近いです。それもあって、親近感はあります。本はつまらないですが。まあ、夏目漱石の話はここまでにします。実は夏目漱石の先祖となる人がいまして。その人は徳川家臣だったそうです。その名前は夏目広次です。この方は三方ヶ原の戦いで討ち死にしました。切ない結末です。では一体どんな人だったのか?この記事にて話したいと思います!

夏目広次のプロフィール

夏目漱石の先祖とは言えども夏目広次はメジャーな人物ではないと思います。教科書にも載っている人物ではないですし。ですので、彼のプロフィールについてから見ていきたいと思います!

名前 夏目広次

生年月日 1518年

出身地 三河国

没年 1572年12月22日(享年55歳)

 

夏目広次の人生

以上がプロフィールです。では彼はどのような人生を歩んだのか?今から話したいと思います!

1.生い立ち

夏目家は清和源氏満快流の流れを汲む村上氏庶流の出自であると言われています。ざっくり言えば徳川と同じ属性ですね。ちなみに、夏目家は清和源氏の初代である源経基の五男・源満快が祖先であると言われています。それで、夏目広次は1518年に三河国の幡豆郡豊坂村にて生まれました。夏目広次のお父さんは夏目吉久、母は水野家だと言われています。水野家と言えば家康のお母さんこと於大の方が水野家の娘ですね。ただ、夏目広次の生母と同族かどうか分かりません。

2.家康に仕える

夏目家は徳川家に仕える譜代衆です。ですので、夏目広次も家康に仕えます。その当時家康は今川義元に属していましたが、「桶狭間の戦い」で今川が負けたことを機に独立しました。それで、夏目広次は1561年に起きた三河の長沢城攻めで功績があったそうです。また、1562年に家康は、板倉重定がいる三河の八幡村城を攻めた時家康は総崩れになったんですよ。そんな時、夏目広次は大役である殿を務めており奮戦したと言われています。その功績から夏目広次は備前長光作の脇差を賜っています。

3.三河一向一揆で裏切る

1563年に一向衆が蜂起し三河一向一揆が勃発しました。実は夏目広次は一向宗の信徒でした。ですので、家康を裏切り一向宗に加勢します。そのため、大津半右衛門や乙部八兵衛、久留正勝と野羽城に籠城し家康と戦いました。これは家康にとってはショックでしょうね。ただ、乙部八兵衛が夏目広次を裏切り徳川家康に寝返えったため野羽城は陥落しました。そのため、夏目広次は捕らわれてしまいます。ですが、救われました。なんと家康は夏目広次を殺す必要がないと言って一向衆に加勢した罪を咎めませんでした。

それから家康の家臣・松平伊忠に仕えることとなりました。もちろん、夏目広次は失った信頼を取り戻そうと一向宗を捨て松平伊忠にしっかり仕えました。それを見た松平伊忠は夏目広次の働きを高く評価し、家康に仕えられるよう手配しました。これで夏目広次は再び家康に仕えることとなりました。

4.三方ヶ原の戦いで討ち死にする

1573年に家康は甲斐の武田信玄と三方ヶ原台地で激突しました。あれですよ。家康がやらかしてしまう三方ヶ原の戦いが勃発しました。あの戦いで信玄の罠に引っかかり、多くの兵を失いました。これは敗北確定ですね。その際に

浜松城で留守を任されていた夏目広次は櫓に登って戦況をうかがっていました。それで、徳川軍に異変が生じたため三方ヶ原台地に駆けつけました。

その際に勝ち目はないと言って夏目広次は徳川家康を止めます。それなのに、家康は応じません。そこで、夏目広次は家康の兜を奪い頭に被りました。そして、自分の兜を家康に被せました。なんで、そんなことをしたのか?それは家康の身代わりとなるためです。兜で人物を判断していた武田軍は家康の首を家取ろうと次々と襲いかかりました。そんな状況だったため夏目広次は55歳で討ち死にしました。

家康の配慮

残念ながら夏目広次は三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなって討ち死にしました。悲しいことではあるものの、家康は感謝し、忠節をたたえ、岡崎の法蔵寺に夏目博嗣の墓を建てます。また、家康は夏目博嗣に信誉徹忠という号を与えてました。ここまでするとは相当感謝しているということでもありますね。

その後の夏目家と夏目漱石

夏目広次がいなくなってからも夏目家は徳川家臣でした。ではその後の夏目家はどうなったのか?また、夏目漱石と夏目広次の話もしたいと思います!

その後の夏目家

夏目広次には4人の男子がいました。ですが、夏目広次がいなくなった時点で長男と次男はすでに亡くなっていました。また、三男の信次は刃傷事件を起こして家を出ていました。これはもう四男の吉忠が夏目家のあとを継ぐことしかできません。ですが、その後吉忠は病死しました。これはピンチです。家の存続に影響を与えます。そこで、夏目広次の忠節を考慮して三男の信次は許され徳川家の家臣として仕えることになりました。その後は徳川家の旗本として存続したそうです。

夏目漱石との繋がり

あの有名な作家でもある夏目漱石は夏目広次の次男の子である夏目吉之を祖とする夏目家の子孫だと言われています。ただ、夏目吉之から夏目漱石まで、どのように繋がるかは分かっていないそうです。どうやら、夏目家は江戸時代に名主身分の町人にまで身を落としているからです。ちなみに、夏目漱石は「坊ちゃん」で自分が夏目家と繋がりがあることを伝えています。

まとめ

身代わりになるって衝撃でした。それくらい家康のことが大切だったんですね。自分の命を捨ててでも徳川を存続させたかったということにもなりますし。きっと一向一揆の時に助けてもらったことに感謝しているのかと思われます。また、感謝だけでなく、徳川に期待していたからこのような行動をしたのかと思われます。このエピソードを見ても夏目広次がいるから家康は生きれたのかなと思います!以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。