命懸けの逃亡!伊賀越えとは何か?

どうも、りかちゅうです!「真田丸」で面白いエピソードありませんでした(私にとっては真田丸の方が需要があるのでwwwwwww)?たくさんあるじゃん。どのシーンだよって?内野家康の伊賀越えです。あれいい年した大人が(いい意味で言っています)大泣きしながら必死に走っているから爆笑でした。オーバーリアクションする内野家康ナイスです!あの伊賀越えを越すことは無理でしょうね。越せられるならばかかって来いって感じです!というか、実際にあの演技くらいに伊賀越えって大変だったそうですよ?なぜなら、道中に敵がたくさんいたからです。伊賀国なんて尚更のことです。では一体どんな状況で家康は伊賀越えをしたのか?この記事にて話したいと思います!

伊賀越えって何?

とりあえず伊賀越えって何と思う方もいるのかと思われます。ですので、まずはそこから話したいと思います!伊賀越えとは畿内から伊賀国(今の三重県西部)を経由して東国の関東地方に行くことを指します。それで、戦国時代の伊賀越えと言えば家康です。本能寺の変が起こった時に家康は伊賀越えで三河国まで帰還しています。ただ、家康は信長とつながりが深かったためこの逃亡は家康にとっては決死の逃亡の1つとなりました。

伊賀越えの経緯

伊賀越えをしないといけなくなったのはちゃんとした理由があります。ですので、まずは経緯から話したいと思います!

1.堺の訪問

武田家の滅亡によって家康は駿河を与えられました。そのため、三河・遠江・駿河の三国を領する武将となりました。そこで、家康はこのお礼と武田戦の勝利を祝うために安土城を訪問します。そして、その後は信長の勧めで上方を遊覧したり、堺など訪問したりするなど楽しんでいました。

2.本能寺の変が勃発

そんな家康が信長の死を知ったのは堺から京へと上洛する途中のことでした(本当は信長は生きていますが)。どうするかを考えた結果帰国を決意しました。

伊賀越えのルート

要するに、本能寺の変が起きて伊賀越えをしたということです。では一体どういったルートで伊賀越えをしたのか?

1.伊賀国を経由して三河に帰還

家康達は伊賀越えをして伊勢から三河へ船で渡る最短ルートを選択しました。スピードが命ですからね。その際に道中では山城国の土豪・山口甚介の宇治田原城や、近江国の土豪・多羅尾光俊の館などに宿泊したそうです。また、伊賀国に入ってからは伊賀の土豪たちの協力のおかげでなんとかなりました。こうして家康達は伊勢から三河の大浜まで船で渡り無事に岡崎城に帰還したのです。

2.道中はたったの34人

家康とともに行動していた人数はわずか34名でしたがそのなかには徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)らが含まれていました。そのおかげでのりきれました。具体的には落ち武者狩りの一揆を脅したり、家康から配分された金品を与えたりしながら道中を通過していったようです。また、大浜で家康を迎えた松平家忠は「家康一行は約200人の雑兵を討ち取った」と書き記しています。

伊賀越えが危険だった理由

伊賀越えは過酷というイメージがあるかと思われます。そうですよね。じゃないと命懸けという言い方はしませんから。ではなんで危険だったのか?

実は伊賀国は土豪が自治を行なっていました。そのため、特定の主を持たない特殊な地域でした。これは信長からしたら嫌と思うでしょうね。そこで、信長は自分んお意に従わない伊賀の土豪達を1581年の第2次天正伊賀の乱で徹底的に武力で制圧しました。そのため、伊賀の土豪たちは織田勢力を憎んでいます。また、家康のことも敵視していたのです。それなのに、本能寺の変が起きたから伊賀を通過したんです!もうその道しかなかったんでしょうね。

伊賀越えの時に家康を救った人

このように、伊賀越えは危険でした。ですが、家康を救ってくれた人がいたからなんとかなりました。では一体誰なのか?

1.茶屋四郎次郎(清延)

京都の商人の1人でもある茶屋四郎次郎は土豪たちに銭を渡して家康一行が無事に通過できるようにしてもらいました。ちなみに茶屋四郎次郎は家康に早馬で本能寺の変のことを伝えたそうです。彼は若い頃に家康に仕え三方ヶ原の戦いなどでも活躍しました。また、伊賀越えでの貢献したことから家康の御用商人として取り立てられたようです。

2.服部半蔵と伊賀衆

伊賀越えの際に道中の加太峠には危険な野伏たちが潜んでいました。ですが、武装した伊賀衆の守りにより家康一行は無事に通過できたといわれています。それができたのは服部半蔵です。服部半蔵は故郷の伊賀衆を動かしてさまざまな戦いで戦功をたてていました。そのため。伊賀越えでも救援を得て帰るという策を進言することができました。その功績から家康は三河に帰還してから警護をした人達を徳川家の隠密団というものを作りました。その際に服部半蔵は隠密頭となり与力30騎、伊賀同心200人を束ねて活躍したそうです。

3.角屋七郎次郎(秀持)

伊勢から三河の大浜までの船を手配したのは伊勢商人・角屋七郎次郎です。もともとは神職の家系でした。ですが、彼のお父さんこと元秀が廻船問屋を開始し「角屋」と号する商人になったことから豪商へと成長したようです。角屋七郎次郎(秀持)は伊賀越えで家康を救ったことから、徳川の御用商人になっています。

伊賀越えと言えば真田丸!

リード文でも言いましたが伊賀越えといえば真田丸です。内野家康の演技には爆笑です🤣🤣🤣。

フルバージョンはこちらで見れます!

 

泣きまくるわ転びまくるわ本当に爆笑でした🤣🤣。爆笑しか言えなくてすいません。語彙力が飛ぶくらいに威力がありましたね。それもあってなのかTwitterの人がこのような画像を作っていましたwwwwww。拾い画失礼します!

こんなドラマあったら私は見ますね!腹筋崩壊確定です!このように、真田丸の伊賀越えはなかなかすごかったです。これ以上の伊賀越えはないと言っても過言ではないです!

まとめ

真田丸の次は鎌倉殿の話をさせてください!もうどうする家康なんてどうでもいいです。鎌倉殿にのえさん出てきたじゃないですか?あの名前って伊賀越えから来てるそうです。のえさんの正式名称は伊賀の方です。そこで、三谷幸喜は伊賀越えを連想したそうです。ただ、「ごえ」なんて名前はおかしいから「のえ」に変えたそうです。というか、どちらも三谷幸喜が絡んでますね。まあ、とにかく伊賀越えは歴史的に見てもインパクトあるものです。その伊賀越えを内野家康が演技してくれたのは嬉しいと思ってます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

りかちゅう