頼朝を助けた人!梶原景時とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!源頼朝は石橋山の戦いでピンチに陥っていました。なぜならば、負けてしまい敗走中に敵方に追われていたからです。そりゃ敵側は頼朝を懲らしめたいですからね。そんな時に助けてくれた人がいました。しかも、平家側の人間です。その名前は梶原景時です。彼は頼朝のいる場所を特定しましたがなんと見逃してくれました。そのおかげで頼朝は生き延び鎌倉幕府を立ち上げることができました。頼朝にとっては命の恩人です。では、そんな梶原景時はどんな人物だったのか?この記事にて話したいと思います!

梶原景時のプロフィール

梶原景時とはどんな人なのかを知るために簡単なプロフィールを作りました!

名前 梶原景時

生年月日 1140年

出身地 

相模国鎌倉郡梶原

今の神奈川県鎌倉市です。鎌倉に行けば梶原景時の資料などがあるかもしれませんね。そんなこと言ってる私ですが、私自身鎌倉に行ったことありますがそこら辺は無知です。でも、ないのはおかしいです。

没年 1200年2月6日(享年61歳)

特徴

石橋山の戦いの時に頼朝を助けました。それで、色々な縁あって頼朝側に属すようになりました。また、いろんな人たちを失脚させようとしたことから悪人とも言われています。

梶原景時の人生

以上がプロフィールです。では、梶原景時はどのような人生を歩んだのか?

1.坂東八平氏の一角に生まれる

1140年梶原景時は鎌倉の豪族こと梶原景清の次男として生まれました。梶原氏の成り立ちに関してははっきりしていないそうです。ただ、皇族を始祖とする坂東八平氏に通じているという説はあるそうです。それもあって平安、鎌倉時代あたりに坂東武士なんて言葉があるんです。ちなみに坂東八平氏とは平安時代中期に桓武天皇の子孫こと平高望が子孫と共に関東地方へ下向した際に別の氏族となって各地に土着したとされる一族だそうです。それで、梶原氏は鎌倉で勢力を強めた鎌倉氏の一角とされているそうです。

以上が梶原景時の血筋ですが若いころデータははっきりと残されてないです。ただ少なくとも言えるのは1160年に起きた平治の乱では源氏側の兵として戦ったものの源氏が没落したことから平氏に従うようになったそうです。

2.頼朝を救う

逸話ではありますが有名な話があります。それは平家討伐のために挙兵した源頼朝を平家側の立場なのに梶原景時は救ったという話です。

詳細としては1180年に頼朝は「石橋山の戦い」にてボロ負けしたことから敗走し山中へ身を隠しました。もちろん、平家は捜索しますよ?その際に梶原景時は洞窟に隠れていた頼朝を見つけました。ただ、捕まえませんでした。なんと、こんなことを言ったのです。

今回はあなたを見逃すことにします。その代わり、あなたが国を治めるようになったら…わかってますよね?

本当のことかはタイムスリップしないと分からないですが見逃したと思えばいいです。また、他の輩が梶原景時を洞窟へ入ろうとした時には洞窟に入ったらただじゃおかないと言って制したそうです。

3.鎌倉幕府に出仕する

1181年に梶原景時は頼朝と再会し鎌倉幕府へ出仕しました。平家から乗り換えたということですね。それ以降、頼朝に重用されるようになり軍事、警備を担当する侍所を任されます。そして、1192年には侍所の長官こと侍所別当になりました。出仕してからは頼朝からの信頼は厚かったそうです。具体例としては有力御家人の1人こと上総広常が謀反の疑いがあるときに梶原景時は頼朝の命で暗殺を買って出たそうです。もちろん成功しました。それ以外にも頼朝の嫡男・頼家誕生の際は出産の諸事を引き受けるなど重要な任務を任されていたそうです。

でも、なんでそんなに信頼してたのと思いますよね?命の恩人であるからは間違いないです。ただ、それだけではなく梶原景時には教養があったことから信頼してたのかと思われます。具体的にはほかの御家人が戦で勝った時に「勝った!」ぐらいしか報告しないのに梶原景時は戦況や敵方事情を細かく記録していたそうです。しごできだから信頼されたということですね。

4.梶原景時の変で没落

1199年に頼朝がなくなりました。その後すぐに北条ではないです。つなぎとして有力御家人を中心とした「十三人の合議制」が敷かれました。梶原景時もそのうちの1人です。選ばれた理由は梶原景時の妻が二代将軍こと源頼家の乳母を務めていたからです。要は梶原景時は源頼家の側近だったということですね。ただ、源頼家はまだ若くて未熟ででした。また、性格も独裁的だったため御家人たちからの受けは良くなかったです。

ある日、結城朝光という御家人が頼朝がいなくなったら出家するみたいなことを言いました。これを聞いた梶原景時は激怒しました。そして源頼家に結城の処分を迫ります。ですが、御家人たちに嫌われすぎていたため御家人66名の署名を集めた連判状を提示されてしまったことから排斥されてしまいました。それ故に梶原景時は一族とともに鎌倉を去りました。そして、翌年には上洛もしようとしましたが駿河国狐ヶ崎(今の静岡県静岡市)の武士に討伐されてしまいます。享年61歳です。

多くの御家人を失脚させようとした?

先ほども述べたようにいろんな人を失脚させようとしました。それ故に後世の人たちは「景時の讒言」と呼んでいます。具体的には壇ノ浦の戦いで戦功を挙げた夜須行宗が恩賞を願い出た際にそんな名前の兵は聞いたことがないぞと言い夜須行宗を疑いました。また、畠山重忠という御家人は謹慎の際に反省の念から断食をしてました。気の毒に思った頼朝は許しました。ですが、梶原景時は不服に思ったことから畠山に謀反の疑いがあると頼朝に言ったそうです。まあ、両方とも冤罪でした。ただ、このような讒言のイメージから梶原景時は悪役ポジションになりがちだそうです。

なんで頼朝を助けたのか?

みんなが疑問に思ってることは石橋山の戦いでなんで梶原景時は頼朝を助けたのか?敵同士なのにと思いますよね?実は理由があります。ですので、その話をしますね。

梶原景時は平氏に従ってるのに頼朝を救った理由は1083年の後三年の役にありました。後三年の役とは1083年から1087年に生じた奥州の支配者こと清原氏の内紛に源義家が介入した戦いです。源義家は強く勇ましかったことで有名な英雄で源頼朝の先祖です。そして、梶原景時の先祖は源義家と主従関係にあった梶原政景です。

要するに、石橋山の戦いで争った梶原景時と大庭景親はどちらもこの人物から派生した一族であるため源氏に従っていました。ですが、平治の乱によって源頼朝の父・源義朝が倒され、平清盛を中心とする平家の力が大きくなったため、梶原・大庭一族は家を守るために平家に仕えるようになったのです。そう考えると内心は源氏の味方という気持ちはあったのかもしれないですね。

まとめ

たしかに、しごできな一面はあったのかもしれません。ですが、欠点としては人付き合いなのかなと思います。他の人を陥れる理由に関しては100%読めないです。ただ、畠山の件は正義感が強すぎてそんなことをしたのかなと思われます。ちなみにこの記事には書きませんでしたが義経とも対立はあったそうです。それもあって今の時代では悪人とか言われちゃってますしね。ただ、頼朝を救ってくれたことで今の歴史はあるのかなと思っています。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう