渋沢栄一の再婚相手!伊藤兼子とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!渋沢栄一には千代という奥さんがいたのはご存知かと思われます。渋沢栄一は千代のことを大切にしていましたしね。ただ、千代はコレラの影響で早くいなくなってしまいました。ただ、渋沢栄一はその後独身であったわけではないです。実は伊藤兼子という女性と再婚しました。おそらく、この記事を読んでいる人の中には誰だよと思う人もいるかもしれません。それはそうですよね。歴史上の人物って女性が目立つ確率は低いですし。ですので、この記事にて伊藤兼子のことについて話しますね!

伊藤兼子のプロフィール

まずは王道ではありますが伊藤兼子のプロフィールを作りました!

名前 伊藤兼子

生年月日 1852年

没年 1934年

備考

伊藤八兵衛という豪商の娘です。渋沢栄一とは12歳年下です。

伊藤兼子の人生

以上がプロフィールです。では、伊藤兼子はどのような人生を歩んだのか?

1.豪商の子として生まれる

伊藤兼子は豪商の伊藤八兵衛の娘として誕生しました。伊藤八兵衛とは武蔵国川越(今で言う埼玉県川越市です)の豪農・内田善蔵の長男で、弟とともに伊勢屋長兵衛のもとで丁稚奉公を実績をつくりました。それから、八兵衛は伊勢屋の一族で幕府の御用商人・伊藤家の婿養子となり、油仲間の寄合所を建て江戸一の大富豪の1人になりました。

ちなみに八兵衛にはこのような逸話があります。どういう内容かと言いますと、水戸の天狗党が旗揚げする際に小判5万両の献金を命じました。その時八兵衛は「小判5万両は難しいが二分金なら3万両ご用立て申しましょう」と答えるだけでなくすぐに3万両を差し出したそうです。また、明治維新のときにも5万両を献上しました。このような活躍は明治時代の雑誌「太陽」の創刊号に載ったそうです。要するに、いとう親がしごできな娘ということですね。

2.継いだのに没頭

指折りの大富豪の娘だった伊藤兼子は、18歳で家業を継ぎました。ただ、女性なので結婚し婿養子をもらっています。このように、今のとこは幸せ真っ只中ではあります。ですが、まさかの出来事が起こりました。それは1871年ごろにアメリカ商人ウォルシュ・ホール商会と共同事業を始めようと保証金を渡したものの、取引失敗により大損失を出しました。もちろん、保証金の返還などを求め民事裁判を起こしました。ですが、交渉は決裂したことから実家は没落し、夫とも離縁することになりました。

 

3.芸妓となってから再婚

離婚した兼子は生きていくために芸妓の道へと進みます。その際に渋沢栄一との縁談を紹介されました。それまでにも兼子には多数の縁談がありました。ですが、どれも妾という条件だったようで縁談を断り続けてきたといいます。もともと豪商の娘と育ちが良かったことから伊藤兼子からすれば、妾という立場は許せなかったのかもしれません。ですが、渋沢栄一との縁談については、正妻として迎えるということから再婚を決意しました。

運命の相手だった?

千代の死により新たな妻となった伊藤兼子ではあるものの、運命的なエピソードも残されています。なんと、伊藤兼子が結婚後に渋沢の邸宅にいくと、そこはかつて伊藤兼子の実家が手放したものだったそうです。こんな偶然あるなんて思ってもないですね。また、渋沢栄一は八兵衛のもとで丁稚奉公していた履歴もあるそうです。まあ、このとき二人に面識があったかどうかは定かではありません。ですが、何かしらの運命的なものを感じさせる関係ではありますね。

渋沢家の子供たち

番外編ではあります。なんでかと言いますと字数の都合上です。やはり、女性の場合はでデータが少ないので難しいですね。さて、渋沢栄一は2人の妻がいたからこそ、渋沢家の子供達ってどうなったのか?これから話したいと思います!

1.7人の子供ができる

渋沢栄一は千代との間に3人、伊藤兼子とのあいだに4人の子供がいたそうです。相変わらず産みますねぇ。ただ、2人の間に生まれた子以外にも妾との間にも数人の子供が生まれていたそうです。なんか、ネットで調べたら隠し子がいたなんていうネタが書かれていました。そのため、実際はもっと多くの子孫を残したかと思われます。いや、絶対にそうです!

また、千代の弟・渋沢平九郎を養子として迎えています。ただ、平九郎は戊辰戦争でいなくなってしまいました。ちなみに、渋沢栄一は多忙ではあったものの、子供たちの朗読を聞くという微笑ましい日課があったそうです。忙しい中でも子供を見ていたんですね。

2.後継は次男?

渋沢栄一の後継者は当初は次男の篤ニとされていたそうです。ちなみに幼くして千代をなくした篤ニは歌子とその夫によって養育されたようです。このように、一見は不自由ない暮らしではありました。ですが、周囲からの大きな期待がプレッシャーがあったため、学生時代に学校に行かず遊女と遊んでいたそうです。女好きは渋沢栄一に似たんですかね。ただ1897年には実業界に入り澁澤倉庫部の倉庫部長に就任しました。そして、そこから澁澤倉庫株式会社に拡大し、初代取締役会長となりました。しかし、経営よりも趣味の世界に没頭していきました。具体的には義太夫、写真、乗馬、日本画、ハンティングなど数え切れないくらいの趣味に没頭したそうです。

とは言えども、1911芸者と不倫問題を起こし、新聞に掲載されてしまいました。これによって後継者としての適正がないと判断され1913年に廃嫡となりました。

3.その後のこと

渋沢栄一は篤ニの長男・渋沢敬三を跡取りにするよう懇願しました。敬三はまだ18歳でした。ですが、渋沢一族の後継者になることを決めました。それで、敬三は学問と仕事を両立し実業家となりました。18歳なのによくやりましたね。そして、1926年には第一銀行(現在のみずほ銀行)の取締役、澁澤倉庫株式会社取締役となり、渋沢栄一の死後は「日本民族学会」を設立したした。また、太平洋戦争中には日本銀行の総裁になったり、戦後は大蔵大臣にも就任したりしました。そして、その後は国際電信電話(現在のKDDI)の社長や文化放送会長なども歴任しています。

何かしらのご縁

伊藤兼子は豪商の娘として生まれました。ですが、運が悪いことで一家が没落したことで渋沢栄一の後妻として生きることを決意しました。ただ、もし没落していなかったら他の男性と結婚していたことから渋沢栄一と結婚するなんてことはなかったです。このようなことを踏まえると何かしらのご縁があったのかなと思われます。また、色々波瀾万丈であったからこそ渋沢栄一のことを支えられたと言っても過言ではありません。ちなみに伊藤兼子は渋沢栄一とのあいだに4人の子を授かったそうです。相変わらず渋沢栄一は子供を作ることには励んじゃうんですね←。

まとめ

個人的には両方の妻も出来た人なのかなと思います。千代に関しては自立した女性でしたしね。詳しいことに関しては千代のコラムを見てください。また、伊藤兼子は富豪の娘ではあったったものの、後を継いでからのハプニングが波瀾万丈であったことから気持ちは強かったはずです。その証拠として妾だけはなりたくないという強い信念が物語られてますね。また、渋沢栄一と結婚する前から何かしらのご縁があるのもマジかよとなりました。こんな偶然ってあるんだなと。このようなことを踏まえても、渋沢栄一って恵まれていたんだなと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう