残念なサラブレッド!藤原公任とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!「光る君へ」のイケメン枠と言えば誰ですか?答えは町田くんですね。竜星涼くんがイケメン枠かなと思ったら町田くんだ出るなんて思ってもなかったです。ちなみに、町田くんは藤原公任役で今回の記事の主役です。実はこの藤原公任なんですが残念なイケメンというよりかは残念なサラブレッドなんです。どういうことかと言いますと身分や才能はあったのに利権の関係で藤原公任は出世できなかった人なんです。では一体どんな感じで残念だったのか?この記事にて話したいと思います!

藤原公任のプロフィール

藤原公任は町田くんが演じているから目立ちますね。高身長のイケメンって目立ちますね。ただ、目立っているとはいえ藤原公任のことを知らない人もいるのかなと思われます。ですので、彼のプロフィールから見ていきたいと思います!

名前 藤原公任

生年月日 966年

出身地 京都

没年 1041年1月1日(享年76歳)

備考

おじいちゃんとお父さんは関白持ちで期待されていたのに藤原家の権力のせいで出世できなかった人です。だから残念なサラブレッドなんです。ただ、芸の才能があることから「和漢朗詠集」や「拾遺抄」の選者ではあります。また、他の作品でも功績はあります。

藤原公任の人生

以上が彼のプロフィールです。藤原の権力の影響で残念なサラブレッドになったち思えばいいです。では彼はどんな人生を歩んだのか?

1.坊ちゃんな生い立ち

公任は藤原頼忠と厳子女王の長男として966年に生まれました。お父さんの藤原頼忠は名門・藤原北家の嫡流であり、円融天皇花山天皇の関白でもありのち太政大臣となる平安時代中期の公卿です。また、お母さんの厳子女王は第60代醍醐天皇の第三皇子・代明親王の娘です。生まれながらの坊ちゃんですね。そんな育ちだったため980年に藤原公任の元服式が行われましたが天皇の御殿である清涼殿で行われたそうです。これは相当華やかですね。しかも、臣下の元服が清涼殿で行われたことはかつてないです。もはや皇族と同じ扱いです。

2.権力得る公任

こんな育ちだったことから天皇が自ら公任に冠を与えたという史料もあるそうです。公任が期待されていたってことでもありますね。また、それと同時に昇殿を許可され宮廷生活の第一歩を踏み出しました。公任が15歳の時でした。さらに、従四位上を17歳で得たのです。お父さんの藤原頼忠でも37歳で得た位なのに17歳は偉業の出世でしかないです。

3.権力がなくなる公任

ここまではいい感じと思いますがこれからが残念な感じになります。986年に一条天皇が即位すると公任のお父さんこと藤原頼忠は関白を辞任し天皇の外祖父の藤原兼家が摂政となりました。そのため、権力の中心は公任の一族のから兼家の一族へ移動しました。987年に公任は道長に位階を抜かれます。ただ、989年朝廷の要職である蔵人頭に任ぜられたもののその先の昇進は停滞しました。そのため、公任はお怒りしました。そのネタは後ほど話しますね。

4.復活を見せる公任

権力都合でサラブレッドの栄光が消えましたね。ですが、チャンスはありました。995年に赤斑瘡というはしかの大流行で藤原道隆が死に996年の長徳の変で藤原伊周が失脚すると道長が政権をものにしました。ライバルの道長とは大きく地位に差がついてしまった公任は道長に頼りながらも権力を復活させようとしました。

5.最期

色々あったものの公任は1004年に従二位に叙せられ1009年にようやく権大納言となっています。坊ちゃん時代のキャリアが報われましたね。ですが、しかし1023年と1024年に次女と長女を続けて亡くした公任は気力を失い出仕を停止した後に権大納言を辞任して出家してしまいました。それから公任は湿瘡という皮膚病で1041年2月4日に亡くなりました。

藤原公任の性格

育ちで決まるのが平安時代ですが藤原公任は例外でしたね。ただ、性格に関してはサラブレッドな割には大人しくはなかったんです。ですので、性格に関しても話しますね!

1.目立ちたがりな性格

元ネタは今昔物語のエピソードです。一条天皇と結婚する彰子のために和歌を屏風に書いて贈られることになりました。その際に公任は選ばれました。もちろん、公任は大御所歌人として道長に期待されています。ですが、約束の時間より遅れて登場した公任は「いい歌が作れない」と言って躊躇います。それでも、道長は公任の和歌がないと意味がないと言ったので困った道長に公任は仕方なくって感じの態度なのにもったいぶって歌を披露したそうです。その時の和歌はこちらです!

むらさきの くもとぞみゆる ふぢの花 いかなるやどの しるしなるらむ

紫の雲のように見えるほど美しい藤の花は、この家のどんな吉兆となるのだろうか。ちなみに、藤の花は掛詞で藤原氏を意味します。

道長一家をよいしょした和歌はその場にいた人々は素晴らしいと褒めました。渋々作ったものなのにこの質ってすごいですね。

2.ボイコットするサラブレット

公任は高い身分の出身の自分が認められないとなった場合ブチギレます。その具体例は2つあります。1つ目は大原野神社への行幸不参加事件です。989年に蔵人頭となった後公任は昇進が停滞しました。なんか参議という位に欠員が出ても公任は任官しなかったそうです。ただ、992年にようやく参議となります。ですが、それと同時に花形職の近衛中将を辞めさせられました。目立ちたがりの公任には不満でしょうね。そこで、公任は朝廷に不満が溜まったため993年に一条天皇の大原野神社への行幸に参加しませんでした。そのせいでしばらく出仕差し止めとなりました。

2つ目は中納言辞表提出事件です。1004年10月に公任は四納言の一人で1歳年下の藤原斉信に位階を越えられてしまいます。プライドが許せなかった公任はすぐに出仕をストップし辞表を道長に提出したのです。それから7ヶ月後に位階が上がるまで出仕しなかったそうです。元がサラブレッドだから地位が高くないと許せないんでしょうね。

藤原公任の和歌特集

何度も言っていますが公任は和歌マスターです。では彼にはどのような実績があってのか?

1.小倉百人一首の一員

百人一首はカルタのような遊び方で使われていますね。私も中学の頃に学校でやりましたね。そのくだリがあるということは公任の和歌が百人一首にあるのって?あるんです!名前は大納言公任で描いています。どんな和歌なのって?こちらです!

滝の音はたえて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ

現代語に訳すと「昔はあったという滝は枯れてしまったが、その名声だけは今も残って語り継がれている」だそうです。きっと昔は育ちが良く高貴だと思われていたのに昇進できなかった自分と照らし合わせているのかなと思われます。滝で自分のことを表現するとはそうきたかと思っちゃいましたね。

2.和歌集でたくさんの和歌が採用される

平安時代には和歌集がたくさんあります。あの時代の人たちは和歌をたくさん作っていましたね。それで公任の和歌は和歌集で採用されることが多かったんです。詳細としては勅撰歌人として「拾遺和歌集」に15首、それ以降の勅撰和歌集に88首の和歌が入首されたそうです。こんなに多くの和歌が入首される人なんて公任くらいなのではと思われます。また、和歌の名手こと三十六歌仙とは、公任の「三十六人撰」によるものです。まさかの公任チョイスだったんですね。このように、平安時代の和歌作品に貢献できるくらいの実績があったそうです。

3.清少納言と和歌で会話

公任と清少納言はご縁がありました。公任が歌人として名を馳せた時に宮中には清少納言も出仕していました。それで、公任は才女として名高い清少納言に「少し春ある 心地こそすれ」という手紙を出しました。それだけかよって?実はこれこの和歌の下の句に上の句を付けて返してという意味を込めて送った手紙です。清少納言はどう思ったのか?実は「枕草子」の中でこのことについて書いているんですよね。どうやら清少納言は相手が他人だったらすぐに句を付けて返すけど差出人が公任ということで当惑したと言っています。それ故に震える手で「空寒み 花にまがへて 散る雪に」と書き付けたらしいです。あの清少納言を当惑させるということは公任の和歌は相当すごいってことですね。

紫式部との関係

光る君への主人公は紫式部です。ですので、彼女と公任の関係も話しますね。実は恋仲説があります。1008年藤原道長の邸宅の土御門邸で一条天皇と中宮・彰子の皇子であるのちの後一条天皇の誕生祝いが行われた時に。酔っ払った公任が紫式部に「すみません。このあたりに若紫の姫君はいらっしゃいますか」と声をかけます。どういうことだよって?若紫とは「源氏物語」のヒロインこと紫の上のことです。どうやら光源氏の理想の女性だったそうです。要するに「源氏物語」にひっかけた公任の冗談です。一方で紫式部はそんな人いるわけないと相手にしなかったそうです。なんでって?実は公任の言葉の「わかむらさき」は「我が紫」という意味で公任と紫式部は恋仲だったからだそうです。あえて紫式部はつれない態度をとった感じだと思えばいいです。

 

まとめ

気づいたらこんなに書いていました。味のある坊ちゃんだったからつい書いてしまいましたね。ボイコットには笑っちゃいました。育ちのいい人が大胆なことするんですね。また、個人的には紫式部と公任の関係が光る君へでどう描かれるか気になりますね。道長が嫉妬するかもですね。これを見ても公任は平安時代にも光る君へでもキーパーソンの1人ですね。というか疲れたからこれで終わりにしますね。最後まで読んでいただきありがとうございました。