三成を裏切った男!小早川秀秋とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!小早川秀秋という名前を見たことがある人はいるのかなと思われます。これは歴史ヲタクでない人も見たことがあるはずです。なぜなら、彼は関ヶ原でのキーパーソンだったからです。どういうことかと言いますと彼が西軍から東軍に裏切ったことで家康の勝利が確定したことです。のちほど話しますがある人は小早川が裏切ることは察していました。ですが、それ以上に小早川の動きに便乗した人の力も大きかったことで西軍はボロ負けしたそうです。要するに、彼は関ヶ原に置いて重要な人物ではありました。肖像画はおっとりしてそうな感じなのに実はって感じですね。ただ、関ヶ原のイメージが強すぎるためそれ以外のことを知らない人は多いのかと思われます。ですので、この記事にて話したいと思います!

小早川秀秋のプロフィール

小早川の名前は有名ではあります。裏切ったという経緯があるだけで有名になれた感じですね。ただ、どんな奴かに関してはちゃんとわかっていない方もいるのかなと思われます。ですので、まずはプロフィールから見ていきましょう!

名前 小早川秀秋

生年月日 1582年

出身地 近江国

没年 1602年12月1日(享年21歳)

備考

実は秀吉の正室ことねねさんの甥です。ただ、途中から小早川隆景の養子となりました。そのため、小早川なんです。関ヶ原の戦いで東軍に寝返ったことで東軍勝利の契機を作りました。

小早川秀秋の人生

以上が小早川のプロフィールです。では彼はどんな人生を歩んだのか?

1.特別扱いされた幼少期

小早川は1582年に近江国にて生まれました。小早川は秀吉の正室ことねねさんのお兄さんの五男でしたとなると、秀吉の甥にあたります。そのため、世継ぎのいない秀吉の養子となり秀吉の跡継ぎ候補とされていた豊臣秀次の後を継ぐのは秀秋と考えられていました。実際にはどちらも実現しなかった話ですけどね。秀次事件を知っていればそれくらいは分かりますよね。ただ、秀吉は小早川に期待していました。なんと秀吉は小早川に7歳頃にはすでに元服させ丹波亀山城の10万石を与えていたそうですよ?キッズにそこまで与えるのは相当ですね。さらに、1592年には権中納言兼左衛門督に任ぜられ豊臣家を継承する者として広く認知されてました。このように坊ちゃん育ちではありました。ですが、子供のうちから周囲の者や全国の大名から甘やかされいたことから接待漬け酒浸りの毎日でした。その話は後ほどしますね。

2.秀吉に捨てられる

1593年に秀頼が生まれると秀次と小早川の立ち場が弱くなります。秀次は謀反を起こしたと勘違いされ蟄居の上に切腹となりました。一方小早川は秀吉からの期待が薄れ小早川隆景の養子に出されます。ただ、小早川も秀次の事件の影響で丹波にあった所領を没収されています。その代わりに小早川隆景の隠居と引き換えに37万石を相続して筑前国国主となりました。

3.朝鮮出兵で転封

1597年に小早川は秀吉の命令で慶長の役に出陣し釜山城の城番を攻めたそうです。ですが、秀吉から再三の帰国要請を受けて1598年に帰国すると秀秋は筑前(から越前へ転封となりました。しかも、石高も半分となってしまいました。収入が半減した小早川は昔からの頼りになる家臣たちを手放さないといけなくなりました。1597年年8月に秀吉が亡くなると秀秋は大老だった家康の温情によって筑前に復帰できました。この出来事によって小早川は家康に大きな借りができたのです。これが後に関ヶ原へとつながります。

4.関ヶ原で三成を裏切る

1600年関ヶ原の戦いで豊臣一族として生まれ育った小早川は初めは西軍として活躍していました。そのまま本戦にも西軍として出陣しました。ですが、実は小早川は本戦前には東軍への寝返りを家康に約束していたそうです。先ほどの恩があるのはもちろんのこと小早川は三成のことが嫌いだったからだそうです。三成が嫌いな理由は武断派と似た感じでしょうね。ただ、8000の小早川軍は松尾山に布陣したまま最初の4時間は見ているだけでした。それを見た家康が小早川の陣へ発砲したことから慌てて東軍に寝返ったそうです。詳細としては急に東軍に味方して山を駆け下り、西軍の大谷吉継ことオオタニさんの陣を攻めます。さらに、その動きに便乗した人たちもいました。その結果東軍は勝ちました。ただ、小早川軍の中にはその裏切りに納得せず離反した大将もいたそうです。これを見ても秀秋の行動は露骨で卑怯なことだったのでしょうね。

5.あっけなく死ぬ

勝利に貢献した小早川は褒美として宇喜多秀家の旧領の岡山51万石を与えられました。ですが、裏切ったことで東軍の人々でさえ冷淡な対応を取りました。戦国は裏切りありなのにマイナスに思われるって相当のことですよ。やはり豊臣家の養子として出世した恩がありながら寝返ったことは卑怯者とみなされるんでしょうね。それから関ヶ原の2年の1602年に小早川は21歳で急死しています。鷹狩りの最中に体調を崩し3日後に死亡したそうです。死因はアルコール依存症によるアルコール性肝硬変だと言われています。ちなみに、小早川には子供がなかったため小早川家は断絶しました。また、その後も長く小早川家の旧臣たちは長く苦んだそうです。なぜなら小早川の裏切りの影響で小早川浪人と呼ばれ仕官の先が見つかりにくかったからだそうです。

 

小早川秀秋の性格

小早川の性格も調べてみたところなかなか面白い一面もありました。ですので、その話もしますね!

1.アル中

どうやら幼いときから大人と同様の接待を受けていました。そのため、12歳でアル中になっています。今の時代ならば考えられないですよね?というか真面目な話をしたら日本はそんな年齢にお酒を飲んだら咎められますからねwwwwwwww。しかも小学生の時にこれはもうアウトです。そんなことはさておき、詳細としては重度のアルコール依存で大酒による黄疸があったそうです。また、重症化した肝硬変に伴う肝性脳症を発症していた疑いがあり判断力や思考力に支障をきたしていたそうです。そのため、乱行や奇行はもちろんのこと関ヶ原の戦いでの初動の遅れがあったそうです。そんな奴が関ヶ原ではキーパーソンなのは驚きですね。

2.浪費家

小早川は限度を超えた浪費家だったそうです。どうやら文不相応の贅沢がやめられなかったため叔母である北政所に500両(今ならば約6000万円です)の借金をしていたり客人にも金を借りていたりしていたそうです。6000万円も借りたら返済が困難になるのによく借りていましたね。いくら身内だからってこれは流石にやばいなと思いましたね。浪費癖くらい直せないんですかね?

3.優しい一面もある

このように、小早川は色々とあかん点はあるのは事実です。アル中には笑っちゃいました。ですが、いい一面もあります。子どもの頃は蹴鞠、舞などの素養に優れていました。貧しい人を見かけると施しをしてあげる心の優しい少年でもありました。

オオタニさんは小早川は裏切ると察していた?

大谷翔平のことではないですよ?戦国時代のオオタニさんは大谷吉継です。実はオオタニさんは関ヶ原の時に小早川が裏切ると思っていたそうです。小早川は三成のことが嫌いなのを分かっていたからでしょうね。そのため、オオタニさんは関ヶ原の時に小早川の行動が分かるところに陣を置いていました。それまではいいんです。問題はそこからです。オオタニさんは小早川の動きに便乗する人たちのことは考えていませんでした。そのため、オオタニさんは三成よりも先に追い詰められました。それだからオオタニさんは自決という最期を迎えました。これを見ても小早川は関ヶ原においてキーパーソンであることが明らかですね。

まとめ

ねねさんの甥だから良くしてもらった一面はありますよね。お金も貸してもらえたわけですし。それだから裏切りがOKな戦国でも関ヶ原で裏切ったのは良いように思われないんでしょうね。関ヶ原の際に裏切りで悪印象与えた武将って小早川くらいですよね?そう考えると関ヶ原のキーパーソンであったのと同時にこの裏切りは豊臣の恩を仇で返したのと同然なのかなと思いました。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう