源氏が挙兵したきっかけ!以仁王の令旨とは

どうも、りかちゅうです!源平合戦の結末は源氏が勝つのは分かるかと思われます。そうじゃないと鎌倉幕府が開かれるわけがないです。でも、何がきっかけで源氏は平家に立ち向かおうとしたのと思いますよね?実際に鎌倉幕府を開いた源頼朝は流罪の身でした。それもあって、立場も何もないです。だからこそ、きっかけが必要です。そのきっかけは以仁王の令旨です。簡単に言えば以仁王が平家を倒せという風に呼びかけたから立ち上がった感じです。では、具体的にどのようなものなのか?この記事にて話したいと思います!

以仁王ってどんな人?

以仁王の令旨と言うからには以仁王がどんな人か分からないといけないと思います。ですので、今から話したいと思います!

1.天皇になれなかった以仁王

以仁王は、1151年に生まれた後白河上皇の息子です。以仁王は血筋も高貴で頭はいい。上に歌や笛も上手だったそうです。なんかもう非常に優秀な人物ですよね。それ故に次期天皇の有力候補者でもありました。ですが、後白河上皇と平滋子の間に生まれた高倉天皇にその座を奪わてしまったことから平氏の圧力の前に不遇の時代を過ごすことになりました。息子なのになんで後を継げなかったのってそれは我が子を天皇にしたいと考えていた平滋子の妨害工作があったからです。

2.鹿ケ谷の陰謀

皇位から遠ざけられたまま月日が経った1177年、鹿ケ谷の陰謀により後白河上皇と平清盛の対立が決定的なものになりました。ただ1179年には後白河上皇敗れてしまい幽閉されてしまいました。もちろん、以仁王も後白河上皇の息子であるという理由から以仁王所領していた土地を平清盛に奪われてしまいます。そして、1180年の3月に高倉天皇の息子こと安徳天皇の即位が決まりました。それ故に以仁王は天皇家の傍流となること確定しました。

跡継ぎにもなれずに所領も奪われるなんて理不尽すぎますよね。しかも以仁王は才気溢れる存在です。それ故に屈辱的な状況を耐え忍ぶことはできませんでした。そこで、1180年4月に打倒平氏のために挙兵すること決心します。

以仁王の令旨までの流れ

色々嫌な目に遭ったことから決意した以仁王。一体どのような流れで令旨を出したのか?

1.仲間探し

もちろん、以仁王だけでは平清盛に対抗することはできません。以仁王自身は軍事力を持っていないからです。いや、なんもない状態です。ただ、その当時平清盛に対して不満を持つ者は多く存在しました。そこで、以仁王はそんな不満分子たちに呼びかけることで各地で兵を募ろうとしたのです。ですが、平家の監視の目は厳しく平家に刃向かうことなどできません。そんな時頼りなる人がいました。その名は源頼政です。

2.源頼政の協力

平治の乱で義朝が死んでから息子の源頼朝が伊豆へ流されました。それ故に実質的に源氏は没落することになります。ですが、源頼政は立場が違いました。どういうことかというと平治の乱では源氏でありながら源義朝とは別れ、平清盛側に属しました。そのため、優遇される立場ではありました。なんと、従三位という高い身分にまで成り上がりました。でも、平家には不満を募らせていました。それ故に源頼政は以仁王の挙兵に協力しました。しかも、源頼政は平家の動きを知ってる人なので強い味方です。

3.令旨を出す

1180年4月9日以仁王は源頼政と協力し、各地の源氏たちに打倒平氏を呼びかける令旨を送ります。詳細としては光信(美濃源氏)、多田行綱(多田源氏)、山本義経(近江源氏)、竹田信義(甲斐源氏) 、源義経、源頼朝です。もちもん、後に鎌倉幕府を開く源頼朝もこの令旨を機に挙兵をします。源頼朝の後方支援は北条家です。また、他のメンバーも協力してくれることから計画はいい感じです。そして、各地で戦乱が起こるようになりました。

以仁王の挙兵

このように、協力してくれる人は確保しました。ただ、以仁王も動かないわけにはいきません。そこで以仁王も挙兵しました。では、どういった流れで挙兵したのか?

1.早速バレる

ずっこけたことを言いますが挙兵を決意してから早速計画がバレました。もちろん、平清盛らは以仁王に対して兵を派遣します。以仁王的には大ピンチです!そこで、以仁王は、園城寺というお寺に逃げ込みます。園城寺は天台宗の有力寺院であり、多くの僧兵を抱え込んでいます。そして、お城に匹敵するほどの安全な逃げ場所の1つでした。そして、簡単に言えばアンチ平家です。逃げ場としてはふさわしいです。ですが、平家も馬鹿ではないので色々手を込んで園城寺へ攻めようとしました。ですが、以仁王は平氏軍の園城寺攻めの情報を事前にキャッチしていたのでもう1つの有力寺院である奈良の興福寺へと逃げました。

2.源頼政の暗躍

その当時、園城寺攻め計画のメンバーに源頼政の名もありました。別に以仁王を裏切ったわけではないです。わざと源頼政は巧みに平氏を騙していただけです。ですが、源頼政は密かに平氏軍勢から抜け出し以仁王のいる園城寺へと合流し以仁王と共に兵を率いて奈良の興福寺へと向かいます。その時に平家は裏切っていたことに気付きました。そして、源頼政は源平合戦におけるダークホース的な存在となりました。

3.平等院の戦い

奈良へ向かった以仁王・源頼政の軍勢はおおむね1000騎だそうです。そして、平氏軍も以仁王達を追撃しました。そして、以仁王・源頼政軍は宇治市の平等院のところで追いつかれ、両者宇治川を挟んで戦うことになりました。ただ、源頼政軍は平氏軍の攻勢に耐えることができませんでした。それ故に一旦平等院へ引き、平等院を最終防衛線として最終決戦に臨みます。ボロボロですがラストチャンスです。とは言えども、平等院の戦いにより死を悟った源頼政は自害しました。ただ、以仁王はなんとか平等院から逃げだすことに成功しました。ただ、平氏軍に追いつかれ興福寺にたどり着く前に以仁王は命を落としました。

その後の影響

たしかに、初の挙兵は失敗に終わりました。ですが、令旨を受け取った源氏たちを討伐しようとしたことで妥当平家という精神は強くなったのかなと思われます。そうじゃないと源平合戦にはなりませんからね。そして、源頼朝と源義仲、源義経などが今後平家を倒すに当たって活躍していきます。今後のことは後ほど話したいと思います!

 

令旨という言い方は間違ってる?

実は令旨という言い方は間違っています。本来の令旨とは皇太子、太皇太后、皇太后、皇后の命令を伝えるために出す文書です。また、平安時代の場合は女院、親王までも拡張されます。ですが、以仁王はまだ親王宣下も受けられない状態です。そのため、本来は発することができないのです。となると、本来ならば御教書と呼ぶべきです。ですが、これでは命令に箔がつかないので、親王の身分になったものとして以仁王の令旨と言われるようになりました。まあ、正式にいうと呼び方としては令旨ではないと思えばいいです。

まとめ

個人的な話なんですが平安末期は好きなんですよね。なんか、源氏が平家を倒すところが面白いです。展開も早いですしね。それもあって、記事を書いているとき楽しかったです。ずっとネタが偏っていたので久しぶりに楽しくかけました。まあ、そんなことはさておき、源氏が今後どうやって平家を倒していくかに関しては後ほど話していくので楽しみにしててください。逆転劇ほど面白いものは無いと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう