家康が大負けした!三方ヶ原の戦いとは何か?

どうも、りかちゅうです!家康が天下を取る前の時代です。若かりし頃の話だと思えばいいです。家康は大負けしたことがあります。その際に脱糞したという伝説もありますからね。ちなみに、脱糞伝説は戦国ヲタク内では有名な話です。汚い話ですが爆笑ですよね。え?とういかどの戦いだよって?言うのが遅くなって申し訳ございません。武田信玄との戦いで三方ヶ原の戦いと言います。信玄の強いためかなりボコボコにされたと言われています。ただ、一体どういう経緯があったのかわからない人もいると思います。特にいつ脱糞したんだよって思っちゃいますよねwwwwwwww。そこが大事って?大事です!まあ、とにかく、この記事にて詳しく話したいと思います!

三方ヶ原の戦いの何か?

三方ヶ原の戦いについて知らない人もいるでしょう。脱糞のヲチしか知らない人もいそうです。三方ヶ原の戦いとは、1573年に三方ヶ原で勃発した武田信玄と家康・信長同盟軍の戦いのことです。信玄はまず家康の浜松城に目をつけました。もちろん、家康は信玄の浜松城侵攻は察していました。そこで、信長軍と共に信玄を籠城戦にて出迎えようとします。ですが、作戦を変更し玄の軍勢を背後から狙おうとしたのでした。ただ、この作戦は失敗でした。なんと、家康の予想は外れ、信玄の軍勢は、なんと家康軍を待ち構える布陣を取ったのです。その結果2時間程度で信玄が勝ちました。これは家康にとっては大負けと言われる戦さとなりました。

三方ヶ原の戦いの背景

三方ヶ原の戦いの概要はこんな感じです。では、一体なんでそのような戦いが起きたのか?次にその話をしたいと思います!

1.信玄の方向転換

信玄の方針を変えました。信玄は三方ヶ原の戦いの戦いの前に信玄との戦いこと川中島の戦いをしていました。あれは有名ですよね。その際に信玄は信玄は今後の方針を転換しました。なんと、今川義元がいなくなってからこれまで同盟関係にあった今川が治めていた駿河国に進行を開始します。同盟を破るということですね。

2.信長と家康の同盟

今川義元が桶狭間の戦いによって滅亡したと同時に家康と信長と同盟を結び始めます。清洲同盟ってやつですね。これで家康が独立をしました。そして、あることも起こります。それは信長は足利義昭により織田信長討伐令を出されていました。そのため、多くの戦国武将から命を狙われていました。それは信玄からしたらチャンスでしかないです。そこで、家康が治める遠江国と三河国に侵攻を開始しました。

三方ヶ原の戦いの流れ

以上が三方ヶ原の戦いの背景です。ではどのような流れで戦いが起きたのか?

1.家康がはめられる

信玄が浜松城を素通りしたため、家康は作戦を変えざる得ない感じになりました。ちなみに、素通りって侮辱も同然そのため考えでもありましたからね。これは家康にとって許せない話ではあります。そこで、信玄の背後を突いて攻撃しようしました。ですが、これが敗因となります。実は信玄は挑発するためにわざとやったんです。

 

それで、挑発に乗ってしまった家康は信玄の背後を取ったかのように三方ヶ原に布陣します。ですが、到着してみると、信玄は家康の2倍もの軍勢で「魚鱗の陣」を取って家康を待ち構えていたのです。これはツムツムです。しかも家康の陣は翼を広げるような陣形をとるため伝達事項が遅れてしまいました。そのせいで徳川軍勢の一部が、命令なしに攻撃を仕掛けてしまいました。

2.家康敗走

最初は織田軍の助力もあって徳川軍が優位ではありました。ですが、兵力も圧倒的な差があったため家康の家臣達は次々と倒されていきます。そして、最終的には陣形は壊され家康は討ち死に寸前まで追いつめられました。このような形で三方ヶ原の戦いは家康の大敗北で終了します。

 

双方の勝因と敗因

このような形で結果はつきました。では双方の勝因と敗因は何か?

1.信玄が勝った理由

これはもう徳川軍が武田軍の挑発に乗ったからですね。ただ、それだけではなく信玄は野戦が得意な武将ではあります。実際、武田軍は機動力の高い騎馬隊が有名ですからね。それもあってなのか川中島の戦いも野戦が主です。また、野戦は兵力が大きい方が有利です。となると、徳川軍の約2倍の兵力を持っていたことは有利そのものかと思われます。

2.家康が負けた理由

家康軍が籠城戦から追撃に作戦を変更したからでしょうね。罠に引っ掛からねければそんなことにならなかったんですけどね。ただ、それだけでなく織田軍の状況も関係しているそうです。当時信長討伐令により織田軍は包囲さえれていました。そのため、織田の主力部隊は近畿地方にいないといけません。織田軍は武田軍と同盟関係にあったため家康軍への援軍は出されていなかったのです。ただ、家康の出撃にはどちらが勝っても徳川家康に有利になるような戦略があったとされる説もあるそうです。

三方ヶ原の戦いの後の流れ

家康は、本田忠勝らの力を借り、命からがら浜松城へと逃げ帰りました。そして、空城の計という作戦を実行します。どういうものかと言いますと浜松城の城門を開放し篝火を焚きました。これを見た武田軍は、計略なのか本当に人がいないのかが分からなかったため浜松城を攻めることなく兵を引き上げたそうです。そひて、家康は寝たそうです。

家康の脱糞?

先ほども述べたようにこの戦いは家康の脱糞のことを話さないと行けないです。ですので、今から話しますね!

簡単に言うと大敗をした家康が脱糞しながら逃げ帰ったというエピソードです。先ほども述べましたが家臣が自分の身代わりとなり次々と倒されて行く光景を見ていた家康は恐怖に耐えることができずに脱糞しながら浜松城へ逃げ帰りました。そのため。脱糞してしまったそうです。なんで分かったのかと言うと家臣が脱糞で汚れた下着を見たからです。その際に家康はなんと苦し紛れに「これは腰に味噌をつけていたのだ!」と言ったそうです。

まとめ

脱糞するって相当ですよねwwwwwww。ちなみにこの戦いは家康にとっては一番辛い戦いだったそうです。まだ若いですもんね。経験が少ないからこそ信玄の大軍にはビビったはずです。また、まんまと罠に引っかかったのは屈辱なのかなと思います。ですが、これを機に家康は強くなっていったのかなと思います。負けることも大切ですしね。要するに、この戦いは家康にとってはいい経験だったと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう