家康3大ピンチ!三河一向一揆とは何か?

どうも、りかちゅうです!清洲同盟を組んだことによって家康は独立することができました。たしかちょうどその頃に名前が徳川家康になったのかと思われます。これで人質生活も終わりです。ですが、そうはいかないことが起きました。それは三河一向一揆です。戦国時代に関しては寺関係が厄介だったそうです。寺の癖に勢力があるなんてなかなかですけね。信長も10年以上バトルしていたそうですよ?もちろん、家康もその件には悩まされていました。三河一向一揆がまさにそうです。どうやら家康3大ピンチの1つだったそうです。しかもあの時の家康は20歳未満ですからね?若い子によく解決したなと思います。このように、色々ありました。ですので、この記事にてその話をしたいと思います。

三河一向一揆とは何か?

三河一向一揆についてどのようなものなのかがわからない方もいると思われます。ですので、まずは三河一向一揆とは何かについて話したいと思います!

三河一向一揆とは1563年に家康の本拠地こと岡崎城の周辺で勃発した一向一揆です。要は一向一揆の一種と思えばいいです。一向一揆とは浄土真宗本願寺教団の門徒たちが起こした一揆のことを指します。ちなみに一向一揆は色んな地域で起きていました。その中でも三河は鎌倉時代に親鸞が立ち寄り布教していたこともあって門徒は多かったそうです。それ故に色々手こずったそうです。

起きた原因

以上が一向一揆の概要です。ではなんで三河一向一揆が起きたのか?

1560年に信長と清洲同盟を結んだ時に家康と一向宗の寺院の間で「不入権」を巡ってのトラブルが発生します。不入権とは領主の介入を拒否出来る権利です。この権利があることで年貢や諸役の免除や警察不介入などの利権を得ることができます。それで、この権利に関しては家康の父・松平広忠が家督の時から与えていたそうです。ですが、三河統一をめざす家康にとっては不都合な話でした。また、家康の家臣達が一向宗の領土に入ったなどのトラブルが発生し、一向宗との関係が悪化したことから一揆に至りました。ちなみに、三河一向一揆の始まった時期は正確には分かっていません。6月とも9月とも言われています。

家臣団の分裂

まだ、一向一揆が起きて徳川で倒そうって考えに至ればいいです。ですが、そういうわけにはいきませんでした。なんと家臣団で一向宗の味方になっていました。なんでそうなったのか?実は家康の家臣の中に一向宗を信仰していた人が多かったからです。後の徳川十六神将のメンバーの一員こと渡辺守綱と蜂屋貞次までもが一向宗側でした。また、家康の側近こと本多正信もそちら側です。主要メンバーが家康と敵対するなんて衝撃ですよね。なんか上級家臣は家康を支持し、それ以外や上級家臣内の勢力争いに敗れた者達が一向宗側についていたと言われています。確かに残った人もいますがそれでもピンチではあったのは事実です。

三河一向一揆の流れ

このように、色々すごい形で三河一向一揆はスタートしました。ではどのような流れだったのか?今から話したいと思います!

1.上和田の戦いでボコボコになる

最も激戦となったのが1564年1月に起きた上和田の戦いです。大久保忠勝・忠世が守っていた本宗寺・勝鬘寺の一揆衆が襲撃し戦いが起きたそうです。その際に大久保忠勝・忠世はともに片眼を射られて負傷したそうです。また、砦が落ちそうになったとき家康が岡崎城から救援に駆けつけ持ち直すものの一揆勢を退けることはできませんでした。武将でも手こずるって相当ですね。結局戦いは3日間続きました。

ただ、それだけではないです。1月13日にまた大久保一党が一向一揆の拠点・勝鬘寺を攻めてたときの話です。その際に家康もいたんですがかなりのピンチだったそうです。なんと家康は一揆勢に襲われて鉄砲に被弾しました。たまたま甲冑の分厚い部分に当たったため怪我はなかったものの、かなり危機一髪だったようです。

 

2.なんとかして巻き返す

一向宗ままだまだやります。1月15日に上宮寺の一揆勢が家康と戦っている隙に、本宗寺・勝鬘寺の一揆勢が家康不在の岡崎城を攻めようと画策しました。それ故に岡崎城の近くで戦闘が始まりました。それを聞いた家康は伯父の水野信元と出陣します。その際に家康はなんとかして巻き返しました。なんと、松平家忠が夏目吉信のいる六栗城を攻めて陥落させました。また、家康は部下たちを説得し続け一揆勢の切り崩しに成功します。

一方の一揆勢は各寺の調子が揃わずバラバラのままだったそうです。一説によれば武士と農民で派閥ができていたそうです。しかも、家康のような仕切り役が不在だったため一揆側はどんどん劣勢になりました。

3.一揆側に有利な形で和睦

三河一向一揆勢は2月中頃に徳川家康に和議を提案します。和睦内容は一揆参加者の赦免、本多正信らの助命、寺内の不入権の継続の3つです。家康からしたらふざけるなとは思います。ですが、これ以上は一揆に時間を割きたくはありません。ですので、家康は一揆側からの和議の条件を最終的に了承し、そして2月末には和睦が成立しました。和睦をしたことで一揆は解散し一向宗側についた家臣も赦免され帰参しています。ただ、本多正信(結局は家康の側近になるんですけどね)や吉良氏、荒川氏など一部の武士は所領没収の上国外退去となっています。

4.有利にしてから改宗する

色々あったものの、平和的に一揆は解決したかと思いますよね?違うんです。家康は一揆の張本人が国外退去した後に本格的に一向宗を追い詰めました。なんと敵対する武士たちが減ったというチャンスを狙って寺院側に他派や他宗教への改宗を迫りました。もちろん、寺院側は反発しますよ?ですが、家康は「寺院がなかった原野の状態に戻すということ」と言い放ったと伝わっています。屁理屈ですよね。もちろん反抗しようとしました。ですが、戦力となる武士たちはいませんでした。残されたのは農民主体の門徒達です。これでは家康に勝つ可能性は低いです。それ故に最終的には一向宗の寺院は多くが破却されてしまいました。また、一向宗は約20年間、三河国での宗教活動をすることができませんでした

平定後の徳川家

家康は反対勢力を追いやったことで家臣団の結束は高まります。要因はいくつかありますが一揆に参加した家臣たちの本領安堵をしたことは大きいのかなと思われます。甘いな思うかもしれませんが一向宗に加担した家臣を許したことでその家臣達は家康に恩を感じることができました。このようにして家康は三河一国を支配下に置くことができました。そして、遠江へと攻略の手を伸ばしていくのでした。

まとめ

ここまで宗教の力が強いとは思ってもなかったです。だって別に武士のように日々鍛えている人たちだらけではないと思いますよ?先ほども述べたように色んな身分の人達がいるからチームワークも悪かったらしいですし?まあ、その影響で負けちゃったのは紛れもない事実ですけどね。それなのに、家康側が一旦はボコボコになるくらいまでの力があるなんて相当です(信長など他の武将も手こずっていたらしいですし?)。本当なんなんですかね?なんかここまで来たら一向宗がどれだけ強かったのか、どうして強くなったのかなど色々調べてみたいと思うようになりました。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう