お市の方の旦那!浅井長政とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!お市の方の旦那は誰でしょう?答えは浅井長政です。政略結婚で結ばれました。彼に関しては教科書では多くは取り上げられません。ですが、歴ヲタ内では有名ではあります。なぜなら、信長を裏切ったからです。あれはまさかの展開でした。政略結婚までしたのに裏切ったんですからね(裏切った理由はのちほど話します)?簡単に言えば家臣をまとめることが出来なかったから裏切ったんです。そのため、彼は悲劇的な結末を迎えました。信長についていけばよかったのにと思いますけどね。では、一体どんな人生を歩んだのか?この記事にて話したいと思います!

浅井長政のプロフィール

まずは浅井長政のことを知るためにも恒例のプロフィールから見ていきたいと思います!

名前 浅井長政(あさいではなくあざいです)

生年月日 1545年8月28日

出身地 北近江(今の滋賀県です)

幼名 猿夜叉丸

没年 1573年9月26日(享年29歳)

備考

浅井家の3代目当主です。信長の考えに合意して同盟を組んだものの、家臣に唆され信長を裏切りました。結果、信長と対立し討たれました。よって浅井家は三代で終わりました。

浅井長政の人生

以上が浅井長政の人生です。では彼はどのような人生を歩んだのか?

1.六角家に従った浅井家

1545年頃に現在の滋賀県こと北近江にある観音寺城下で浅井久政の子どもとして生まれました。浅井長政が幼少期の頃の浅井家は六角家に従っていました。理由は当時南近江の守護であった六角家に敗れたからです。そのため、浅井長政は母と共に人質として育ったと考えられています。また、お市の方と結婚をする前に浅井長政は六角家の家臣こと平井定武のと結婚していました。ただ、この結婚は強制的に行われた可能性が高いそうです。そのため、すぐに離縁しました。

2.浅井長政が後を継ぐ

1560年浅井長政は15歳という若さで野良田の戦いで六角家を討ちます。形勢が逆転しましたね。これで浅井家を栄えさせることができます。また、浅井長政が家督を継ぐ際にあることをしました。それは浅井長政のお父さんこと浅井久政に不満を持つ家臣らと共に父を竹生島に隠居させたそうです。義時と同じような感じのことをしたんですね。このように、強奪な形で家督をを継ぎます。

3.信長と同盟を組む

1563年に信長は浅井長政に同盟を提案します。近江は京都と近かったため信長はどうしても浅井家と同盟を組みたかったんです。「近江を制する者は京都を制す」と
言われるくらいに重要だったそうですよ。それで、浅井長政は信長の意見に同意しました。なぜなら、信長と同じように平和な国にしたかったからです。信長は縄文時代のような平和な国を作るために思考錯誤していました。その際に信長は浅井長政に声をかけました。その際に浅井長政は信長の意見に賛成したそうです。どうやら浅井長政も権力のために争う世の中に嫌気を指していたとか。

このように意見が一致したことから信長と同盟を組みました。その際に浅井長政は信長の妹こと浅井長政と結婚しました。次の結婚はうまく行ったそうです。

4.部下が反対する

信長の提案した同盟の条件は浅井長政にとって有利な内容でした。ですが、家臣の意見に関しては賛否両論だったそうです。なぜなら、浅井久政の盟友である朝倉友景と信長が不仲だったから。そのため、浅井長政は「朝倉家を攻めない」という条件を追加するという形で同盟を結ぶことにしました。それでも、家臣は納得してくれません。理由は浅井長政にありました。それは自分の気持ちを熱く語ることができなかったからです。自分だけであれこれ考えていただけで話しても理解してもらえないって考えがあったそうです。これが悲劇を生みました。

5.信長を裏切る

1570年信長が浅井長政との約束を破ります。なんと信長は家康と越前国)の朝倉家を攻めたのです。そのため浅井長政は家臣に唆されました。信長を裏切って朝倉につこうと。もちろん本人は信長の意見に賛成していますよ?ですが、家臣の意見に乗ってしまったため、信長を裏切りました。その際に初めは浅井長政は優勢でした。ですが、姉川の戦いで大負けしました。浅井長政は小谷城に立てこもります。

6.小谷城の戦いで自害

姉川の戦いから3年後の1573年に信長は3万の兵を率いて北近江に攻め込みます。小谷城の戦いといいます。本拠地の小谷城まで信長にに包囲されるなんて浅井長政にとってはツムツムです。ただ、信長もすぐに潰そうとしませんでした。秀吉らを送り降伏するように圧力をかけます。ですが、断り続けたそうです。また仲間にいれてなんて言えなかったんでしょうね。そして1573年9月26日に浅井長政は小谷城内の赤尾屋敷にて自害します。29歳でいなくなりました。信長についていけばそんなことにならなかったんでしょうね。これによってこれによって浅井家は滅亡したのです。たったの3代でした。ちなみに、お市の方はともに自害はせず、娘と共に信長のもとに戻りました。浅井長政に生きてほしいと言われたんでしょうね。

浅井長政の性格

以上が浅井長政の人生です。切ない人生でしたね。そんな彼ですが一体どんな性格だったのか?

1.義理堅い性格

浅井長政は義理堅い性格で有名です。実は浅井長政なんですがお市と結婚する前に正妻がいました。なんか主従関係だった六角氏の家臣の娘を正室に迎えたそうです。要するに。強要されての結婚でした。この主従関係を嫌った。浅井長政は、すぐに六角家を戦で破り妻とは離縁します。その際に浅井長政は一切妻には手を出さずに送り返したそうです。同情からそうしたとは言われていますが手を出さずに送り返す点が義理堅いのかなと思います。

2.見かけはぽっちゃり

肖像画を見るとぽっちゃりとしていますよね。この肖像画は

本人にかなり近い肖像画だと思われます。また、長政は180cm以上という高身長でした。当時の男性は158cmくらいが平均と言われていましたからかなり大きいですね。それもあってイケメンとも言われていました。え?ぽっちゃりがイケメンって?実は戦国時代は体格が良くてがたいがいい男性がイケメンと言われていたそうです。今と昔のイケメンの基準は違いますね。

リーダー要素は欠けていたのかもね

浅井長政が信長を裏切ることになったのは家臣に唆されたからです。これを見てもリーダー要素は欠けていたのかなと。もし熱く語れるような能力があったら唆されることはなかったはずです。むしろ、納得させていたと思います。なんで何言っても無駄だとか思ったんですかね。平和な国の話をしたらいいのにと思ってしまいます。それ故にリーダー要素は欠けていたのかなと思います。あと、自分の言葉ではなく信長の言葉に沿って行動していたから家臣に唆されたのかと思われます。なんか勿体無いです。

まとめ

まさかこんなに若くいなくなるとは思ってもいなかったです。こんな悲劇となるならば初めから信長に従えばいいのにと思ってしまいました。信長の意見に賛成していたわけですから。ただ、浅井長政には自分がリーダーとなってという考えよりも信長のサポートみたいな考えがあったから家臣を納得させることができなかったのかなと思います。もし熱意があったら自分だけで考えればいいってならないですからね。このようなことを踏まえてもいい人であったとしてもりー

最後まで読んでいただきありがとうございました。