貢献はしたのに…。源範頼とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!頼朝にはたくさんの兄弟がいます。それは鎌倉殿を見ている人ならば分かることでしょう。頼朝のお父さんこと義朝はどれだけ産んでるんだか…。まあ、そんなことはさておき、頼朝の兄弟の1人に源範頼という人物がいます。それで、なんで彼の話をするのか?それは真面目で鎌倉幕府に貢献した人なのにもかかわらず頼朝とバトルして死んでしまったんです。兄弟同士のバトルでいなくなったのは義経だけじゃないのって?そうなんです。源範頼もそのパターンでいなくなりました。真面目に貢献していたのになんでと思いますよね?ですので、この記事にて彼の話をしたいと思います!

源範頼のプロフィール

まあ、安定ではありますがまずは源範頼のプロフィールから見ていきたいと思います!

名前 源範頼(下の名前はのりよりと言います)

出身地 遠江国蒲御厨

今でいう静岡県浜松市です。鎌倉殿で範頼が蒲殿と呼ばれるのはこっから来ています。

生年月日 1150年

没年 1193年9月14日(享年44歳)

備考

源平合戦で大将軍を任され、義経とともに平氏を滅亡に追い込んだ武将です。真面目なせいかくであったものの、頼朝に謀反の疑いをかけられ、悲劇の最期となりました。

源範頼の人生

範頼のプロフィールはこんな感じです。では範頼はどのような人生だったか?

1.範頼生まれる!

範頼が生まれたのは1150年ごろと言われています。彼は源義朝の六男として、現在の静岡県こと遠江国蒲御厨で生まれました。それもあって、蒲冠者とも呼ばれていました。ちなみにお母さんは遠江国池田宿の遊女でした。まさかの遊女って思うかもしれませんが範頼のお母さんは池田宿の有力者の娘だったらしいです。池田宿は京都と関東の中間地点で勝手がよかったそうです。それ故に義朝は姻戚関係を築こうとしたと考えられています。ちなみに、範頼は遠江で過ごしていたため平家と源氏のバトルに巻き込まれることもなかったそうです。

2.公家の養子となる

義朝は戦いに敗れました。それ故に源氏の没落を契機に公家の藤原範季の養子となりました。藤原範季とは朝廷でもかなりの重役で、関東の受領を任されるほどの人です。じゃあ、範頼という名前はそこが来てふのって?そうです範季の「範」の字を賜ったものです。ただ、ずっと公家生活を送ったわけではないです。1180年に後白河天皇の第三皇子の以仁王が平氏を嫌に思い、平氏討伐の令旨を出します。これに応じた頼朝が挙兵すると範頼は遠江周辺の有力者と協力関係を築き戦乱に備えました。

3.源平合戦で活躍

範頼が頼朝と合理したのは1183年です。常陸国で精力のあった志田義広が頼朝に反旗を翻したときのことです。そして、1184年に上洛しました。ちなみに、源平合戦での範頼は取りまとめ役です。範頼の取りまとめのおかげで源氏が勝てたとも言われています。具体的には屋島の戦いで平家が九州への逃げられないようにしたことですね。それもあって、頼朝は義経よりも範頼を評価してた説もあるそうです。そして、1185年3月24日に壇ノ浦の戦いにて平家は滅亡しました。

4.鎌倉幕府の御家人となる。

源平合戦が終ってから範頼はそのまま九州へ残りました。理由は平氏の残党の処罰など戦後処理があったからです。その際に範頼は頼朝に忠実であり続けました。なんと敵兵の処分をめぐっても自分だけでは判断せず常に指示を仰いだという話もあります。一方で義経は戦術の才能こそあったものの、このあたりの配慮にかけていました。それは皆さん分かりますよね。それ以外にも範頼は源平合戦の戦功から三河国の国司に任命されました。そして、1190年に頼朝が大納言の官職を賜ったときは祝賀の行列で先導役をしました。これを見ても絶対的な信頼を得ていることがわかります。

5.謀反の疑いにかけられる

1193年5月に頼朝は「富士の巻狩り」というイベントを行います。目的は富士山の裾野を舞台にし、御家人を集めて盛大に狩りを行うことで幕府の権威を示すためです。その最中でなんと、頼朝が重用していた御家人の工藤裕経が曾我兄弟によって討たれてしまいます。曾我兄弟の仇討ちですね。その際にデマなんですが頼朝も討たれてしまったという噂が鎌倉へと伝わりました。もちろん、政子は動揺しました。その際に範頼は政子を安心させようとしました。ただ、範頼が次は自分が後継ぎ的なことを言ってしまったんですかね?それか政子が範頼を陥れるためにそういう風ににしたんですかね?まあ、真相は分かりませんが頼朝にそれが伝わり激怒しました。謀反の疑いってなりますよね。

もちろん、範頼は焦ります。そこで、弁明のため忠誠を誓う書状を送ります。ですが、「源範頼」と名乗っているのを見て頼朝はさらに激怒し、返事も出さずに無視してしまいます。それ故に範頼は家臣の当麻太郎を送り込みましたが逆効果。もうどうにもならないです。

6.島流し

ここまで来たら挽回の余地もないです。それ故に範頼は伊豆へ島流しとなり修禅寺にて幽閉されました。この後のことは分かりません。なんか「保歴間記」などではすぐに誅殺されたと言われています。一方で実は生き延びているという説もあります。まあ、よく分からず終わったということですね。

源範頼の人物像

真面目が範頼ですが実は意外な一面もありました。ですので、そこら辺も含めてどういう人物像かについても話しますね!

1.頼朝に忠誠を誓う男

義経との違いはここですね。頼朝に相談せず独自に行動したのは義経です。一方で範頼は頼朝に従順な人物でした。九州征伐のときも帰還するにあたって「海が荒れたので到着が遅れます」という細かい報告までしています。このような忠実な態度は頼朝に評価されました。まあ、それによって義経の独断専行ぶりを際だたせることになるんですけどね。このようなことを踏まえると、死後に有名になった義経と違って地味な印象の範頼ではあるものの、真面目な人物であるのは間違いないです。そういう一面があるからこそバトルという結末は悲しいなと思います。

2.頼朝に逆らったこともある

真面目なのにまさかのと思いますよね?まあ、逆らったとは言えども1回だけです。それは、頼朝に奥州へ逃げた義経追討軍の総大将をやれと言われたときです。範頼は弟を討つことはできないと考えたのでしょう。そりゃ、血が繋がっていますからね。ただ、この優しさのせいで自分の首をしめることになだちゃうんですけどね。

3.編纂されてしまう人

範頼は「源平盛衰記」では「凡将」「無能」と評価されています。ですが、これに関しては義経の武勲を引き立てるために範頼の活躍をあえて書かなかったそうです。歴史とは時の権力者が編纂しちゃうとはこういうことですね。また九州征伐においての兵糧不足も低評価につながっています。ただ、これは頼朝が食糧問題を解決する前に出発させたことが原因であるそうです。頼朝が将軍になったから範頼を悪者扱いにしているのは間違いないですね。

まとめ

なんか可哀想としか思えないですね。もし曾我兄弟の仇討ちで頼朝が死んだというデマが流れなかったらそんなことにならなかったと思うんですよ。最後の最後で悪い運が巡ったとしか思えないですね。また、政子が陥れたという説もありますがなんで陥れたのかが分からないです。もっと深く調べればなんか分かるかもしれませんが。まあ、どんなことあれこんな結末なんてあってはならないと思います。鎌倉時代って本当残酷ですね。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう