戦国の北条の滅亡!小田原征伐とは何か?

どうも、りかちゅうです!本能寺の変から秀吉は力をつけるようになりました。それもそうです。信長は秀吉に仕事を引き継がせるようにしていたわけですから。それからは順調に領地を平定していきました。ですが、最後まで手こずった場所がありました。それは小田原にいる北条家です。実はその時期に伊達政宗も抵抗はしてはいました。ですが、伊達政宗も最終的には折れました。ですが、北条家は最後まで折れないで戦い続けました。ですが、降伏をしました。相当悪あがきをしたということでもありますけどね。ちなみにその戦いを小田原征伐と言います。地名通りですね。この戦いは短期間ではあるものの大軍でなんとかしたそうです。ではどういう戦いなのか?この記事にて話したいと思います!

戦国の北条は鎌倉の北条とは関係ない!

小田原征伐の話の前に戦国の北条と鎌倉の北条の違いについて話しますね。鎌倉の北条と小田原征伐で滅ぼされる戦国の北条は同じ一族かと思いますよね?ですが違います。戦国時代の北条の祖とされる北条早雲はもともと伊勢宗瑞という名前で北条ではないんです。どういうことだよって?実は戦国時代の北条が「北条」を名乗ったのは2代目の北条氏綱の時代からで初代の北条早雲はあくまでも後年の呼び名です。そのため、生前には一度もその名で呼ばれていなかったそうです。

小田原征伐の経緯

以上が戦国の北条と鎌倉の北条の違いです。それで戦国の北条は秀吉と小田原にて戦います。一体なんで戦うことになったのか?

1.秀吉の上洛要請に無視したから

本能寺の変で信長がいなくなってから秀吉は着々と権力をつけました。そして、1585年に秀吉は関白に就任しました。また、1586年には翌年には四国を1587年には九州を平定し残るは関東と東北だけとなりました。これはなんとしてでも平定したいですよね。そこで、1587年に秀吉は関東、陸奥国、出羽国では勝手に戦をしてはならないという惣無事令を発令しました。それだけではありません。自らの権力を全国に知らしめようと京都に聚楽第を建設しました。そして、1588年4月に秀吉は聚楽第に後陽成天皇を招き全国の大名に上洛するよう命じました。全国の大名は秀吉に従うのか、従わないのかを試されていたと言っても過言ではありません

ところが、北条と伊達政宗は上洛要請に応じませんでした。伊達政宗に関しては別の機会で上洛するんですけどね。ではなんで北条は上洛をしなかったのか?それは農民出身の豊臣秀吉を認めていなかったからです。関東を治める北条家は初代の北条早雲以来100年以上続く名門な武家です。そのため、4代目当主の北条氏政と5代目当主・北条氏直は秀吉のことを認めようとはしませんでした。

2.勝手に戦をしたから

北条氏政は奪われた沼田城を返してくれないから上洛をしないと秀吉に言いました。その当時の沼田城主真田昌幸は秀吉の家臣です。そこで、秀吉は沼田城を北条氏に返還する沼田城の支城である名胡桃城を真田家に残すという内容で交渉し丸くおさめようとしました。ですが、北条氏政は秀吉の言い分に不満を抱き名胡桃城は沼田城の支城だから名胡桃城も北条氏に明け渡すべきだと言いました。それだけではありません。1589年10月に沼田城代猪俣邦憲は名胡桃場を攻め取ってしまいました。これは惣無事令に違反します。そこで、秀吉は北条に宣戦布告しました。

小田原征伐の流れ

以上が小田原征伐が起きたきっかけです。では一体どんな流れで戦が起きたのか?

1.小田原城の包囲

箱根の山中城を豊臣秀次や家康などが大軍で攻め落とします。1590年4月上旬に本隊が小田原に到着し小田原城を包囲するのと同時に海上に軍船を配備して海上封鎖もおこないます。また、秀吉は韮山城などのほかの城を各将に攻めさせ小田原城の孤立化を狙いました。一応韮山城を籠城する北条氏親は4万人の豊臣軍に対し4000弱の兵で4ヶ月以上耐えきりましたが家康の説得により開城しました。また、下田城は水軍舞台の活躍で落城しました。

2.小田原平定

1590年6月には忍城以外の城は落ち伊達政宗までも秀吉側についたため北条家の敗北は決まりました。そこで、6月24日秀吉は黒田官兵衛と滝川雄利を使者に降伏を勧告しました。ただ、この影響で軍議は紛糾して二転三転しました。こうしてなかなか結論が出ない会議こと小田原評定という故事成語が生まれました。そして1590年7月5日に北条氏直が降伏を勧告し自身の切腹と引き換えに場内の兵士たちを助けるよう訴えるという形で小田原征伐は終了しました

3.落とせなかった忍城

北条家の城は次々と落城していきましたが、最後まで唯一残った城があります。それの忍城です。忍城は三成が攻めましたが小田原城が落城するまで忍城を攻め落とすことはかないませんでした。忍城は利根川と荒川に挟まれた湿地地帯にある城で川を利用した水堀や土塁、沼で囲まれているため攻めにくいことで有名でした。そこで、豊臣軍が考えたのは水攻め作戦です。川の水を引き込んで城を水没させようという作戦でしたが忍城が高台にあったことで本丸部分は水没せず残りました。さらに大雨で堤防が決壊したことで豊臣軍にも被害が発生したため攻めきれませんでした。ですが、小田原城の落城の後忍城は開城しました。

 

5.北条の滅亡

降伏後北条氏政と北条氏照、重臣の松田憲秀と大道寺政繁は戦の責任を取って切腹しました。一方、切腹を訴えた北条氏直は高野山への蟄居を命じられます。また、翌年の8月には秀吉に許されて1万石の大名になったものの体調を崩し30歳の若さで病死しました。北条氏規は高野山に蟄居していましたが許され、河内国や丹南郡合わせて9000石弱を得ました。ちなみにその子孫は明治維新まで狭山藩主として名を残しました。

 

その後

結末としては北条が降伏して終わりました。となると今後どのような動きになったのか?

1.秀吉の天下統一

小田原征伐で勝利した豊臣秀吉はついに関東を平定しました。その際に豊臣側として小田原征伐に早く参戦した大名には本領を安堵し、遅れて参戦した大名には、滅亡、減封、改易などの処置を下しました。そのため、一揆をおこす国衆もいました。ですが、秀吉は一揆を鎮圧し天下を統一しました。

2.家康が関東に移動

秀吉は家康から遠江国、駿河国、三河国、甲斐国、信濃国の5ヶ国を取り上げました。
その代わりに関東の7ヶ国を与えました。それから家康は江戸を拠点とすることになりました。

まとめ

もう北条には勝ち目のない戦ではあったんですけどね。だって秀吉は役22万人の兵で小田原城を包囲したんですよ?それなのに約5万~8万2000人しかいなかったんですよ?それなのに北条は悪あがきをするって相当従いたくなかったのかなと思われます。名門の家であることのプライドですかね?ただ、そのプライドも束の間だなと思ってしまいました。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう