認められなかった!お万の方(長勝院)とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!家康には悲劇の側室と言われる人がいます。その名はお万の方です。悲劇になった理由を簡単に言うとその当時の家康の正室こと築山殿がその側室を許さなかったからです。許さなかった理由は築山殿の女中だったからです。女中に手を出す家康もなかなかなことしていますねwwww。このように修羅場となってしまいました。そしてこんな感じだったため、お万の方は子供ができたとしても子供に徳川の名前をつけることができませんでした。また、一旦は子供と離れた生活になりました。このように、認められなかったことで波乱万丈な人生となりました。波乱万丈ですね。では一体どんな人生だったのか?この記事にて話したいと思います!

お万の方のプロフィール

まずお万の方のことを知らない人もいると思います。ですので、まずはお万の方のプロフィールから見ていきたいと思います!

名前 お万の方(長勝院とも言われています)

生年月日 1548年

出身地 三河国

没年 1620年1月10日(享年72歳)

お万の方の人生

以上がお万の方のプロフィールです。相変わらず少なくてすいませんね。訳ありだし尚更のことかと思いますが。では、お万の方はどのような人生を歩んだのか?

1.生い立ち

お万の方は1548年に三河国知鯉鮒明神の社人であった永見貞英の娘として生まれます。母は、水野忠政の娘でです。またまたですが家康の母である於大の方の外姪と言われることもあります。於大の方絡みは多いですね。ただ、そこにかんしては真偽は不明です。女性あるあるですね。それで、お万の方の名前は万・於万の方・於古茶・於故満・松・菊子・小督局などが伝わっています。また、随庵見聞録に収録される本多重次書状写に「おこちゃ」とあるため本多重次には「おこちゃ」と呼ばれていたとも言われています。

2.築山殿の女中となる

1562年に人質交換によって家康の正室であった築山殿が今川の元から家康のところにまで戻ってきました。場所はあの当時なので岡崎です。それで、成長したお万の方は女中として築山殿に仕えることとなります。

3.家康のお手つきになる

築山殿に仕えていたお万の方を家康がお万の方を手付にしてしまいます。ただ、ここで問題が起きます。実はその当時、正室が側室を認める権限を持っていました。女にも権限があったのは知りませんでした。そのため、自分の女中が夫と関係を持ったことが許せなかった築山殿はお万の方を家康の側室とすることを認めませんでした。

そのため、ある出来事が起きました。それは1570年に家康は今川氏真を破って遠江国を得たことにより松平家の本拠を岡崎城から浜松城に移しました。それで、岡崎城を嫡男に松平信康に与えたそうです。ただ、家康は築山殿が浜松城へ移ることを許しませんでした。そのため、築山殿は家康が去った岡崎城に松平信康と共に入城することとなりました。こうしたことで家康は、おそらく浜松城にて築山殿の拒否権を無視してお万の方との関係を続けます。

4.家康の子を妊娠する

1573年お万の方が家康の子を妊娠します。それを築山殿が許していなかったのにもかかわらず妊娠したことを聞いた築山殿はお万の方を追放してしまいます。もちろん、浜松城にいれるわけないです。その際に家康は反対できなかったそうです。ただ、家康はお万の方を重臣であった本多重次に預けたとも言われています。

1574年2月8日に浜松城下にあった宇布見村の中村源左衛門正吉の屋敷において於義伊(後の結城秀康)を出産します。この時最悪なことが起きました。それは双子であったことです。その当時、双子は「畜生腹」として忌み嫌われていたためもう一人の子はお万の方の実家である永見家に預けられました。その後、その子は伯父である永見貞親から知立神社の神職を譲り受けましたが1605年11月16日に31歳の若さでいなくなりました。

5.於義伊と家康の対面

実はお万の方は家康にとっては嫡男の松平信康以来16年ぶりに生まれた男子です。本来ならば大歓迎な話です。ですが、その出生を築山殿が承認しなかったために於義伊は本多重次や中村源左衛門らの下で育てられることとなりました。そのため、家康は於義伊が満3歳になるまで対面すらしませんでした。どうやら家康の嫡男・松平信康が徳川家康の尽力により対面ができたそうです。ただ、家康の子として認知されるのは築山殿がいなくなってからです。

6.於義伊、秀吉の養子となる

1579年に家康の命によって松平信康が切腹させられました。これは事件案件です。考えてみてください?家康の次男であったお万の方の子・於義伊が後継者となるべきじゃないですか?ですが、家康はこれを嫌い1584年の小牧・長久手の戦いの後11歳となっていた於義伊を秀吉の養子に差し出しました。人質ですね。これでもう後継者にはなれませんね。また、於義伊は大坂に移されたためお万の方は2人とも取り上げられた結果となってしまいました。

7.息子、結城家を相続する

その後、1584年12月12日に元服した於義伊は秀吉から「秀」の字、家康から「康」の字を貰い受け、名を羽柴(三河守)秀康となりました。ですが、1589年に秀吉に待望の子である鶴松が誕生しました。となると、豊臣の養子たちは邪魔者でしかありません。そこで、秀吉は、1589年に5月に結城晴朝の養子として結城家に出してしまいます。ですので、名前は結城秀康となりました。そして、10万石の大名となります。

8.お万の方の最期

1600年11月結城秀康は関ヶ原の戦いの武功により越前国68万石を与えられて越前北ノ庄城に入ることとなりました。その際に家康がお万の方に側室としての地位を与えて結城秀康の下に同行することを許します。その時にお万の方は北ノ庄城に入り十数年ぶりに共に生活ができるようになりました。

9.出家

1607年4月8日に結城秀康が梅毒を原因として死去するとお万の方は家康に無断で出家をしてしまいます。本来は旦那がが死亡した時に出家するものなのでお万の方の出家は問題となります。ですが、家康は咎めることをしませんでした。1619年に72歳で死去します。

残酷な逸話

お万の方には残酷な逸話があります。先ほども述べたように家康の正室こと築山殿がお万の方を認めていなかったです。ただ、認められていただけではない逸話があります。実はお万の方の懐妊を知って築山殿が激怒したんですよ。それで、お万の方を裸にして庭の木に縛り付けたそうです。ただ、それではお万の方がかわいそうなので本多重次が助けて中村正吉に匿わせたという説があります。「どうする家康」の築山殿は有村架純ですがそんなことをするイメージないですよね。まだ直虎の時の菜々緒の方がイメージあります。ただ、逸話なので真実かの証拠はないです。とはいえども、そんな逸話がある時点で相当嫌っていたということでもありますからね。

まとめ

正室の許しがないと側室になれないって話は知らなかったですね。側室を自由に決められると思っていたので。まあ、この件に関しては色々あったものの、最後の最後で平和な暮らしはできたからいいですけどね。ですが、もし不幸なエンディングだったら悲劇そのものだと思います。そう考えると、家康はやらかしたなと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。