岡崎クーデター!大岡弥四郎事件とは何か?

どうも、りかちゅうです!武田家が滅びる前に武田勝頼と家康は戦っています。その話は相当の歴史好きでないとわからない話かと思われます。だってそんなの教科書に書かれていませんから。なんでその話をしているのか?実はその戦いで家康側で裏切り者がでました。大岡弥四郎という人物です。それ故にその出来事は大岡弥四郎事件と言われています。そのまんまですがwwwwww。結論としては裏切りは家康の耳に入り徳川はなんとかなったもののその影響で家康の正室こと築山殿との関係が崩れます。実は築山殿と信康がその事件に加担していたからです。それも後から家康に流れました。ではどういう事件だったのか?この記事にて話したいと思います!

大岡弥四郎の人生

大岡弥四郎なんて言われても何者なんだとよ思いますよね?ですので、まずはその人がどんな人なのかについてから話したいと思います!

1.算術が得意な人物

大岡弥四郎の出自については不明です。マイナーな人だと生い立ち不明はあるあるです。ただ、算術が得意だったそうです。そのため、家康に重用されました。その際に家康の長男かつ岡崎城の城主の松平信康に仕えていたそうです。また、家康にも仕えていたため浜松城と岡崎城を往復していたそうです。相当信頼されていたようですね。それもあってなのか大岡弥四郎は岡崎町奉行にまで出世したと言われています。ちなみに、家康に仕えるまでは侍と小者の間にある中間として働いていたといわれています。

2.家を裏切る

このように、大岡弥四郎は家康と信康に感謝されるようなことをしていました。ですが、1575年に「大岡弥四郎事件」が起こってしまいます。事件の内容を簡単に言うと大岡弥四郎は家康を裏切り武田勝頼に内通し、岡崎城内に武田軍を引き入れようとした事件です。ただ、この計画は山田八蔵の密告により失敗に終わりました。よって岡崎城は無事でした。これを知った家康は大岡弥四郎事件は残酷な形で処刑されてしまいます。

大岡弥四郎事件の流れ

このように大岡弥四郎は家康のことを裏切ります。では具体的にどんな形で裏切るのか?

1.大岡弥四郎の裏切り

実は長篠の戦いの前に家康と武田勝頼は戦っていました。その時はまだ武田は強かったです。そう考えると武田勝頼はポンコツではなかったのかもしれませんね。それで、その戦いを機に事件が起きます。実はその戦いの時に武田勝頼が遣わした歩き巫女(どうする家康の場合は望月千代女ですね)が徳川側に潜り込みました。それで、築山殿に内通しました。何でそんなことをしたのか?実はその歩き巫女が築山殿や家康と築山殿の子供こと松平信康を国主にするという提案したからです。もちろん、築山殿は加担しました。えええ?家康の身内だろって?その話は後ほど話しますね。

そして、その際に大岡弥四郎が謀反を起こすことになりました。ただ、手紙には武田勝頼の複数人の部下を岡崎まで差し向ければ岡崎城主の信康を討ち取れと書いたそうです。表向きでそう書いたのかもしれませんね。

2.謀反がバレて処刑

謀反は成功するかに見えましたが大岡弥四郎の仲間の1人が家康に謀反を密告したことで、計画が発覚。これによってこの計画は阻止されました。

首謀者の大岡弥四郎はもちろん処刑です。これがれなかなか残酷なんですよね。鋸引きの刑というものです。まず、引き回しの上に生き埋めにされます。食事もできないとなればなかなかしんどいですね。あとその様で寝られるわけないです。ただ、それだけではないです。7日間もの間竹のこぎりで首を引かれました。また、妻5人は磔の刑に処されました。キリストのあれと同じです。ただ、娘たちは咎められず出家して尼となりました。

3.加担者の処罰

同じように共謀に加わった松平新右衛門は自害、小谷甚左衛門は討死、倉地平左衛門は甲斐へ逃亡する結果になりました。また、事件に関与していないのに大岡弥四郎の同輩の江戸右衛門七も責任を問われて処刑されました。

なんで裏切るようなことをしたのか?

にしても、なんで大岡弥四郎は裏切ったのと思いますよね?そこも話したいと思います!

1.武田につこうとした説

信玄が亡くなったとはいえまだまだ武田の力は強かったです。実際に長篠の戦いが起こる前は圧倒的に武田勝頼が有利でした。となると、大岡弥四郎は徳川と武田のどちらに味方した方が有利となるか打算的に考えて行動していたとしてもおかしくないです。ようくるに、大岡弥四郎が家を繁栄させるために武田と手を組もうとしたということです。

2.家財が没収されたことに恨みを抱いた説

戦での武功などが評価され領地が増えることは武士としてはいい話です。ですが、大岡弥四郎は近藤壱岐の加増は「大岡弥四郎の口添え」があったと言いました。このことに近藤壱岐はひどく激怒し加増を辞退してしまいました。なんてことを言ったのか。さらに最悪なことにその話は家康の知られました。そして、家康は大岡弥四郎は横暴であると判断し、大岡弥四郎の家財をすべて没収しました。その際に没収した家財の中から大岡弥四郎が武田勝頼に内通する書状が出てきたといいます。

築山殿・信康事件につながる

実はこの事件をきっかけに夫婦喧嘩へと発展していきます。理由としては信康と築山殿が大岡弥四郎事件に加担していたからです。確かに、事件当日にこの2人はトラブルがあったわかではないです。ですが、後になって信長から築山殿と信康が武田勝頼と内通していると言われました。しかも、事件から約4年経った1579年にそんな話があがりました。きっかけは信康と妻の五徳が喧嘩したことです。信康の妻こと五徳は信長の娘でした。それで、些細な喧嘩なのに五徳は信康を許すことができませんでした。そこで、五徳は信長に信康や築山殿が武田勝頼と内通していたことをチクリます。

その話を知った信長は家康にもその話を伝えるのはもちろんのこと、信康と築山とのを処罰しろと伝えます。それ故に家康はまず1579年8月3日に信康に対して三河衆の岡崎城下屋敷での居住を禁止し、本領での居住を命令しました。そして、築山殿は遠江にて8月29日に殺害、9月15日に家康の命令で信康は自害しました。この話の詳細は別記事にて話したいと思います!

まとめ

これが築山殿と信康の事件につながるとは思ってもなかったです。まだ大岡弥四郎についてはなんで裏切ったかはわかります。ですが、2人に関しては読めないですね。きっと家康に何か恨みでもあったのかと思われます。あと私的にはあの処罰はなかなかの残酷ですね。7日間痛い思いするなんて。とにかく、お怒りだったんだと思います。まあ、感想としてはそんな感じです!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう