坂東武士の鑑!畠山重忠とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!坂東武士のの鏡とは誰でしょう?それは畠山重忠です。なんでそのように言われているのかと言いますと潔いからです!何かあっても濁さずに紳士な形で対応します。そこに関しては後ほど話しますね。それ故に坂東武士の鏡だなんて言われていました。いや、私的には時代抜きにして武士の鏡ではないのかなと思っています。それもあって、中川大志が畠山重忠役をやったのかなと思います(顔立ちが正統派イケメンなので)。まあ、とにかくこの記事にて畠山重忠とはどんな人なのかについて話したいと思います!

畠山重忠のプロフィール

まずは安定ではありまふがあ畠山重忠のプロフィールを書いたのでそちらを見てください!

名前 畠山重忠

生年月日 1164年

出身地 武蔵国男衾畠山鄕

(今でいうの埼玉県深谷市畠山です。畠山と書かれていることからゆかりの街みたいにみなされているのかもしれませんね。)

没年 1205年6月22日(享年42歳)

備考

清廉潔白な人柄で知られていました。それ故に鎌倉幕府創業の功臣として頼朝に重用されました。またそれだけではなく「坂東武士の鑑」とも言われています。。それなのに時政によって謀殺された悲劇の武将です。

畠山重忠の人生

以上がプロフィールです。では、どんな人生を歩んだのか?今から話したいと思います!

1.かつては頼朝の敵だった

畠山重忠は武蔵国畠山荘の桓武平氏の流れを待つ畠山重能の子として1164年に生まれました。お母さんは三浦義明の娘という説と側室の江戸重継の娘という説があります。畠山重能は、源義朝に従っていました。ですが、1159年の平治の乱で義朝が負けてからは平家の家人として活躍していました。それ故にかつては頼朝の敵でした。1180年に頼朝が挙兵したときはお父さんの代わりに17歳の重忠は頼朝討伐に向かいましたからね。ですが、頼朝が再起を図った時には重忠は源頼朝に帰伏し頼朝が鎌倉に入る際には先陣を務めました。鎌倉殿では見かけがいいからという理由で選ばれましたね。

このように、かつては頼朝の敵でしたが途中から味方になりました。ただ、重忠が頼朝の見方になったのかについての理由はわかっていません。

2.一ノ谷合戦

義経の提案で急な崖から逆落としをしたことで勝った一ノ谷の戦いはご存知かと思われます。この戦いで重忠も参戦。断崖絶壁を下り敵の背後を突きます。その際に畠山重忠はとんでもないことを考えます。なんと、断崖絶壁を下ったら馬が傷付くことから重忠は馬を担いで降りたそうです。義経もすごいですが重忠は斜め上の発想をしましたね。まさかの馬を大切にするなんて。その時点で坂東武士の鑑ですね。ちなみにこの話は源平盛衰記っていう史料に載ってる話です。

3.身柄を拘束される

壇ノ浦の戦いで平家が滅びたら重忠は伊勢国の地頭に選ばれます。ですが、重忠の代官が伊勢国で狼藉をやらかします。それ故に重忠は身柄を拘束されてしまいます。重忠は自分が疑われていることが屈辱に思い断食をして自ら命を絶とうとします。その姿を見た頼朝はやりすぎだといい重忠は解放され武蔵国へ戻ります。

4.梶原景時とのいざこざ

ところが話はまだ終わりません。次は頼朝の側近中の梶原景時が重忠を疑います。梶原景時もかつては平家側でしたね。そんなことはさておき、梶原景時は重忠は拘束されたことを恨んで武蔵国で謀反の準備してるのではないかと疑いました。もちろん重忠はしていないのでやってないと言います。ですが、梶原景時は折れません。起請文を書けと言いました。重忠は書くかと思いきや書きません。なんと、このように言い返したそうです。

俺は源氏に忠誠を誓っている。そんなことはしない。それに起請文も書かん。言葉が信用できないからと言って起請文を書かせるのは悪い奴にさせることだ。俺は心と言葉が違うようなことはしない。そう頼朝様に伝えるんだ

梶原景時は黙りこくりました。一方で頼朝は重忠に苦労した褒美を与えて終わりにしようと言いこのいざこざは終わりました。言い返し方は名言だなと思いました。

5.畠山重忠の乱

1204年11月に重忠の息子の重保がとある宴会で平賀朝雅と口論となったのです。平賀朝雅は鎌倉殿でいうりくさんと時政の間に生まれた娘の娘婿です。りくさんはこの事件にブチ切れました。そこで、畠山が謀反を企てたことにして潰そうと時政に相談します。時政は了承したものの政子と義時は乗る気になりません。それなのに強行しました。畠山重保は謀殺されてしまったのです。もちろん、重忠は許しません。義時軍が二俣川で待ち伏せされていることを知りながらも、あえて潔く戦うことを選び命を落としました。これが畠山重忠の乱です。この話は別記事にて話したいと思います。

りくさんと時政はやりすぎですね。もちろん、この2人は周りからは非難されました。それ故にこの2人はいずれは失脚します。

中川大志のフォトコレクション

番外編です。鎌倉殿で畠山重忠役を演じたのは中川大志くんです。イケメンですのでかなりの好評でした。鎌倉殿のイケメン担当といえば畠山重忠レベルです。ですので、軽くフォトコレクション致します!

髭がある時も髭がない時もイケメンですね。潔さが感じられるお顔と言えばいいのか?こんな方が畠山重忠の乱にていなくなるなんて悲劇でしかないです。そんなの私が許しません!りくさん許さないからな💢!

まとめ

衝撃だったのはかつては頼朝とは敵関係だったことですね。元から味方だと思っていました。また、どう考えてもりくさんは許せないです。鎌倉殿で重忠役を中川大志くんがやったからこそ余計に許せないです。いや、ここまで潔い人が謀反なんて起こしますかね?ただ、息子が対立しただけなのに謀反ってなることがどうかと思います。鎌倉時代あるあるですね。まあ、とにかく坂東武士の鑑が理不尽な形でいなくなるのは許せないです。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう