徳川四天王の最年長!酒井忠次とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!家康の優秀な4人の家臣たちこと徳川四天王の最年長は誰だかご存知ですか?その名前は酒井忠次です。家康よりも15歳年上だったそうです。そのため、家康にとっては頼りになる存在だったかと思われます。確かにみんな頼りにはなると思いますよ?ですが、人生の先輩として頼れる存在だったのかなと思われます。ピンチな時に先陣を切るような存在でしたからね?これは先輩の鑑と言っても過言ではありません!また、盛り上げ大将でもありました。もうこれは理想の上司としか言いようがないですね。私自身、記事を書いてて上司にしたいってなりましたね。ですので、この記事にて話したいと思います!

酒井忠次のプロフィール

酒井忠次と言われても分からない人もいるかと思われます。徳川四天王なのに教科書に載ってないですからね。ですので、彼のプロフィールから見ていきたいと思います!

名前 酒井忠次

生年月日 1527年

死亡日 1596年12月17日(享年70歳)

備考

徳川氏の家臣で徳川四天王・徳川十六神将ともに筆頭とされていました。また、家康の第一の功臣として称えられているそうです。力のある部下のなかで第一なんて言われるのは相当のことですね。

酒井忠次の人生

以上が酒井忠次のプロフィールです。では、彼はどのような人生を歩んだのか?

1.生い立ち

忠次は1527年三河国の井田城にて左衛門尉系酒井忠親の長男として誕生しました。忠次のお父さんこと忠親は家康の祖父である松平清康の傘下として活躍しました。そのため、忠次も家康の家臣として生きるようになります。そんな中あるハプニングが起きます。なんと1537年き忠親がいなくなりました。そのため、忠次は10歳にして家督を継ぐことになります。

2.今川義元に注目される

忠次は若くして家督を継ぎ武将としての能力も早くから認められていきます。ただ、酒井家は家康の父である松平広忠に仕えていたものの、一時、今川家の傘下となります。その際に忠次は今川義元から武将としての才覚を認められました。そのため、織田家との戦いに駆り出されるなど軍事に秀でた人物となみなされました。

3.三河平定のために動く

今川義元の傘下となったのは理由があります。それは家康は8歳の頃より今川家の人質となっていたからです。もちろん1560年の桶狭間の戦いには今川軍として出陣します。それまで幾多の戦いに参加し、武功をあげてきた忠次は先発隊として大高城へ兵糧を運び込むなど貢献します。ですが、今川義元は信長に討たれました。その結果家康は今川を切り岡崎城へ戻ることとなります。ただ、それで終わりではないです。三河一向一揆が起こるなど内乱がおきていました。その際に中心となって活躍したのが忠次です。そのあめ、三河を平定した時に周辺の土豪たちを配下とした忠次は東三河の旗頭として四天王の中でいち早く出世を遂げましま。これは家康からの信頼も大きいこと間違いなしですね。その後も武田信玄との同盟締結をするなどたくさん活躍しました。

4.軍師として注目される

1570年には姉川の戦いに参加しました。初めは浅井朝倉が優勢であったものの先陣を切って突撃するなどの活躍で忠次は信長からも一目置かれるようになりました。このように、自分の家以外の戦国武将から認められた忠次の活躍もあって家康自身もさらに勢力を強めていきました。

5.息子に家督を譲る

忠次にある転機が訪れます。それは1584年に起こった小牧・長久手の戦いでした。もちろん忠次は大軍で攻めてくる秀吉軍から小牧山の陣地を守るなど中心となって活躍します。ですが、和睦をしてしまったため家康は秀吉の配下となります。これ以降は忠次の活躍の場は失われていったそうです。また、1588年には家督を嫡男の家次に譲り忠次は隠居生活をしました。それ以降は面影もなく1596年に70歳で静かにこの世を去りました。

酒井忠次の性格

このように、酒井忠次は色々ありました。となれば、性格だってインパクトあるはずです!ですので、その話をしますね!

1.盛り上げ大将

酒井忠次の性格は仕事ができるだけではないです。なんと宴会部長と言われるくらいに盛り上げがうまかったそうです。どうやら余興を披露するプロなためみんなを楽しませるそうです。また、寄り添うことが上手くかつ良い人オーラがあるため昨日の敵も今日の友に変えてしまうくらいの存在だそうです。調略とかうまそうな気がします。

2.貫禄がある

あの信長や秀吉も忠次と会うときは緊張しまうくらい貫禄のある人だそうです。一方で忠次は平然としていたそうです。また、自分の仲間にも厳しく叱る能力もありました!なんと井伊直政に嫉妬する榊原康政を「うるせえ!」と一喝して黙らせたそうです。また、武器を握れば最強です。甕通槍という愛用の槍で水瓶に隠れた敵を瓶ごと突き倒したこともあります。 これを見てもなかなかの強者ですね。

酒井忠次の逸話

ドラマでもある海老すくいの際に忠次はノリ良くやったそうです。みんながが拍子をつけると忠次は手をかき腰をふりふり踊ります。そのため、見てる人は大爆笑しました。このおかげでどの顔にも笑顔が広がり長篠の戦いに勝利したという話があります。また、北条氏政と同盟を結ぶ席でも北条の重臣たちの前で披露して笑わせたそうです。

まとめ

途中から見たふりをしている私がこんなことを言うのもあれですがどうする家康ではあまり登場していないような気がします。他のメンツの方が出ているからかもしれませんがwwwwwww。だからなんかもったいないとは思います。先輩の鑑として出しても良かったのかなと。まあ、要するに影の存在で終わらせるなということです。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう