一条天皇の最愛の人!藤原定子とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!一条天皇はすごく一途でした。一途とは言っても妻が一人ってわけではなかったです。天皇となると1人で終わりってことは無理がありますからね。しかも一条天皇の時代なんて道長が絡んでいるからこそ。ですが、一条天皇はある人を一途に愛していました。その女性の名は藤原定子です。彼女は道長のお兄さんの道隆の娘で家柄のある人です。また、性格も見かけもよろしい人です。なんてパーフェクトな人なんだよと思いますよね?私も書いててマジかよと思いましたもん。では、彼女は一体どんな人なのか?この記事にて話したいと思います!

藤原定子のプロフィール

 

名前 藤原定子

生年月日 977年

没年 1001年1月13日(享年24歳)

備考

一条天皇の最愛の人です。短い人生であったものの波瀾万丈な人生を歩みました。

藤原定子の人生

以上が定子のプロフィールです。いい家の人ですね。では彼女はどんな人生を歩んだのか?

1.生い立ち

藤原定子は977年に藤原道隆と高階貴子の長女として生まれました。道隆はその時の権力者こと兼家の長男です。兼家は娘を天皇に嫁がせており定子が生まれた翌年には右大臣となっています。一方で高階貴子は百人一首にも載っている有名な女流歌人です。円融天皇の女官として宮中で働いた経験もあります。両親ともに家柄のいいとなれば定子は才色兼備なお嬢さまだったそうです。

2.一条天皇に嫁ぐ

989年に定子は12歳の時に着裳の儀式を行い、初めて歴史の表舞台に登場します。着裳とは女性が成人した際に行われる通過儀礼で初潮を迎えた後の10代前半の女子が対象です。それで、裳着を済ませたら結婚が許可されます。そのため990年に一条天皇と結婚します。それから993年16歳くらいの時に清少納言が定子の女房として仕え始めます。女房とはお世話係です。2人の関係は後ほど話しますね。

3.サロンでは看板女性だった?

サロンとは宮中の特定の集団のこと。この場合だと定子を中心として仕える女性が集まって知的な会話を楽しむ感じですね。その際に定子はサロンで活躍していました。例えば自分の女房がいい歌を詠むときちんと褒めてあげたり、腕試しをするような言葉を言ったりしていたそうです。また、定子自身も知的な冗談を言うとかもしていたそうです。素晴らしいトップですね。そのため、定子がいなくなってから9年経っても懐かしむ声があったそうです。そして、一条天皇も足繁く定子のもとに通いました(当時は通い婚といって男が女のいる所に通っていました)。

4.後ろ盾がいなくなる

995年に道隆が倒れて亡くなり、道長が力を得ることになりました。本当は定子のお兄さんこと伊周が権力を得る感じになれば良かったんですが一条天皇は気に入りませんでした。また、権力争いでは道長が勝ったので定子には強い後ろ盾がいなくなってしまいました。ただ、一条天皇にとって定子は最愛の人でもあるだけでなく道隆が定子以外の女性の結婚を許さなかったためライバルはいませんでした。

5.出家する

定子のお兄さんこと伊周が色々バトルしたりトラブルを起こしたことから定子は罪はないものの、その時は第一子を妊娠中の中実家の二条宮に身を隠していました。996年5月に一条天皇は強制捜査の命を出し定子の目の前で伊周と隆家は連れて行かれてしました。ショックを受けた定子は妊娠中なのに自分で髪を切って出家しました。そえrだけではありません。996年の夏には定子がいた二条宮が火事になり、定子はおじの家に移ることになりました。さらに、秋になるとお母さんがいなくなるだけでなく同僚の女房たちに「道長側のスパイ」とあらぬ疑いをかけられたため清少納言の実家に帰りました。

6.一条天皇の呼び戻しと出産

一条天皇は定子の出家にショックを受け997年6月に周囲の反対を押しのけて定子を還俗(尼であることを捨て俗人に戻ること)させて呼び戻したのです!もちろん周りの目は冷たかったものの中宮職といって天皇の妻に関わる事務を担当する役所の建物に住まわせました。それから999年11月7日22歳の時に定子は一条天皇の第一皇子となる敦康親王を出産します定子の立場は完全回復となりますね。子供を産んだわけですから。ですがそうはいきませんでした。

7.最期

道長もが娘に皇子を産ませてさらに権力を盤石なものにしたいということから彰子を一条天皇に嫁がせました。その際に立場は彰子が上になりました。道長がそうさせた感じですね。これは正妻が2人と思えばいいです。しかし、正妻が2人になろうと一条天皇は定子に一途でした。彰子が実家に帰った隙に定子を呼び寄せ子どもを妊娠したのです!そのため。1001年1月12日に定子は媄子内親王を出産します。しかし産後の経過が悪く媄子内親王を出産した翌日の1001年1月13日に24歳という若さで亡くなりました

藤原定子の人物像

見かけは清少納言が絶賛するくらいの美人でした。清少納言が出仕した時にこんなことを言っていたそうです。

いとつめたきころなれば、さしいでさせ給へる御手のはつかに見ゆるが、いみじうにほひたる薄紅梅なるは、限りなくめでたしと、見知らぬ里人心地には、かかる人こそは世におはしましけれと、おどろかるるまでぞ、まもり参らする。

とても寒い時期なので、(中宮さまの)差し出しなさった手がほのかに見えるが、その手がたいへん美しい薄ピンク色なのが非常に素晴らしいと、私のような田舎者は「こんな人が世の中にいらっしゃったのか」とはっと気づいて、じっと(中宮さまを)見つめ申し上げる。

うっとりしていたことが伝わりますね。また一条天皇もイケメンだったことから美男美女カップルとも言われていました。

では性格はどうなのって?優しく、よく笑うだけでなくユーモアと才気に溢れ思いやりの豊かな人だったそうです。人を惹き付けて感化させるような力があったってことですね。

清少納言とのエピソード

一条天皇と定子のエピソードは多くなるのでここでは書きません。ですが、清少納言と定子んおエピソードも濃いものです。ですので、その話もしますね。

1.引きこもる清少納言に声をかける

清少納言が女房として仕え始めたばかりの頃清少納言は緊張と羞恥心から隠れてばかりいました。そこで、定子はきそのような定子の気遣いのおかげで、
清少納言は宮仕えにとけこみ、楽しく働けるようになった
のです

2.和歌を歌わなかった清少納言に無理強いしない

梅雨時の清少納言は仲間の女房たち4人でホトトギスの歌を詠むために「松ヶ崎」という場所までお出かけをすることになりました。ですが、食事をしたり藤原公信の邸まで行ってちょっかいを出したりたりするなど楽しみすぎたせいで機会を逃してしまい、ついに歌が一首も詠めませんでした。内裏に帰って定子にまだ何も詠んでいないことを報告すると、「あんまり大層に構えるから詠めなる。だからここで詠みなさい」
と定子から叱られてしまいました。しかし、清少納言はもうその日は興ざめで歌を作る気分になれませんでした。それを見た定子はその時は何も言わなかったそうです。清少納言の気持ち的に無理と察したのかもしれませんね。

まとめ

24歳でいなくなったのになんか波瀾万丈ですね。一条天皇に好かれてはいたものの権力争いにまで巻き込まれるなんて。その影響で嫌われていたことがありましたし。ですが、それでも一条天皇など支持してくれる人がいたのは性格の良さがあったからなかと思われます。これを見ても定子って見かけだけでなく人ができているから一条天皇に一途に愛された思いました。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう