問題児だった?渋沢篤二とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!渋沢栄一には複数の息子や娘がいました。それはそうですよね。明治時代だし子作りは今の時代よりもあるのは当然です。というか、渋沢栄一の性格からしたら子作り上等って感じでしたねwwwwwww。まあ、そんなことはさておき、渋沢栄一の子供の中になかなかの問題児がいました。その名前は渋沢篤二です。どう問題児かと言いますと女遊びが激しくて色々やらかしていた感じです。それ故に跡継ぎ失格になってしまいました。なかなかの人ですよね?ですので、この記事にてどんな人か話しますね!

渋沢篤二のプロフィール

前 渋沢篤二

読み方が「とくじ」だったり「あつじ」だったりします。どちらが正しいのかは分からないです。ですが、国立国会図書館典拠データ検索すると「とくじ」と出てくるそうです。ですので、公的な読み方は「とくじ」でいいのかなと思います。

出身地 東京都裏神保町

今でいう千代田区神田神保町一丁目1、3、5、7、9、11番地あたりです。1922年にその呼び方は廃止されました。

生年月日 1872年11月16日

没年 1932年10月6日(享年61歳)

実は次男だった?

実は渋沢篤二って渋沢栄一と千代の「長男」と紹介されることが多いんですよね。でも、本当は長男ではないです。実は次男なんです。どういうことかと言いますと渋沢栄一と千代にはもう1人男の子がいました。その名は市太郎というそうです。それなのに、なんでその子の存在は言われないんだよって?市太郎は、生まれて半年ほどで亡くなってしまったんです。昔の時代だとそういうことは今よりも多いです。それ故に次に生まれた男の子こと渋沢篤二が「長男」となりました。おそらく、篤二の「ニ」は実は次男だから」というニュアンスもあるのかと思われます。

渋沢篤二の人生

以上が渋沢篤二のプロフィールです。では、渋沢篤二はどのような人生を歩んだのか?

1.渋沢篤二生まれる

渋沢栄一は1872年に裏神保町で生まれました。その当時渋沢栄一は大蔵省の官僚として働いていました。また、渋沢篤二が物心がついた頃に渋沢栄一は第一国立銀行などの事業家として活動していたそうです。このように、お金持ちの家で育てられたのは明らかではあります。ただ、渋沢篤二が9歳の時に千代がコレラでいなくなってしまい、渋沢栄一は伊藤兼子と再婚しますが。となると、伊藤兼子が育てるのと思いますよね?実は違うんです。なんとすでに嫁いでいた姉の歌子のもとで育てられました。なんか、不思議っちゃ不思議ですよね。

2.龍門社の結成

渋沢栄一は渋沢篤二に対して色々期待していたそうです。まあ、男の子だからこそ出世して欲しいという気持ちはあったのかもしれませんね。それで渋沢家は1886年に江東区の深川福住町にある渋沢邸(1876年に裏神保町から引っ越しました)に寄宿する渋沢篤二と同世代の青年たちの勉学と成果発表の場として渋沢篤二を社長とする「龍門社」なる団体を結成したそうです。その際に渋沢篤二の伯父である尾高惇忠の指導の下、「龍門雑誌」などを発行していたそうです。

3.落ちこぼれ時代

このように、何かと活動はしていました。そして、その後、学習院から熊本第五高等中学校に進学します。なんで熊本に行ったのかはわかりません。ただ、帝国大学への進学してほしいと渋沢栄一は思い描いていたのかなと思われます。ですが、そんな思いとは反対に

渋沢篤二は親の目が離れたからなのかいわゆる「廓遊び」にはまってしまったそうです。いわゆる女遊びですね。それで、最終的には「ワタクシダイシツサク。イサイユービン」とかいう電報をよこすようになりました。なかなかのやらかしですね。もちろん、渋沢栄一は許しませんでした。渋沢篤二を病気ってことで退学させ、その後1年ほど血洗島で謹慎させられました。

4.公家と結婚

謹慎させたとは言えども渋沢篤二は大事な跡取りです。それ故に最終的には家に呼び戻し、家庭教師などをつけて勉強させたそうです。そして、1895年に篤二は橋本敦子と結婚します。橋本敦子は伯爵橋本実梁の娘です。京都の名門公家の1つの家の娘と結婚したと思ってください。ちなみに橋本敦子は和宮の血も引いているそうです。相当なお嬢様ですね。

その後橋本敦子との間に3人の男の子が生まれました。また、渋沢倉庫、東京毛織物会社の取締役として、事業家的な活動もしていましたことから精神的に安定していたそうです。ですが、遊びに対する興味は無くなったわけではなく義太夫や馬などの趣味に没頭はしていたそうです。

5.跡継ぎ失格

渋沢篤二は1906年ごろに福住町から三田綱町に引っ越しました。これで親の目がないです。それ故にまた遊び溺れました。なんと、妻子の暮らす家には帰らなくなりましま。どこで暮らしていたかと言いますと新橋の芸者・玉蝶と暮らしていました。そして、1911年ごろになると、篤二と玉蝶の関係は新聞に晒されてしまいました。もちろん、渋沢家から避難があり1913年に渋沢篤二は跡継ぎ失格になりました。そして、渋沢篤二の息子こと敬三に決まりました。その後は趣味や犬の飼育などに没頭していたそうです。とは言えども、一度は退任した渋沢倉庫の取締役には再就任しています。

6.玉蝶との関係性

玉蝶という女性は新橋では有名な美女だったそうです。なんか、実業家の根津嘉一郎や三井財閥の人間とも関わりがあったそうです。このようなことを踏まえてもお金持ちを転がすのは大得意だった女性なのかもしれませんね。そして、玉蝶と渋沢篤二の関係は、なんと渋沢死ぬまで続いていました。どう言うことかと言いますと玉蝶と20年間暮らした白金の家で渋沢篤二は最後を迎えたそうです。後継ぎ失格となったのによく続きましたね。

渋沢栄一似なのかね?

渋沢栄一をディスる形にはなりますがこれはもう渋沢栄一にしてしまいましたね。でも、個人的には渋沢栄一よりも渋沢篤二の方が遊び様はすごかったのかなと思っています←。ただ、少しだけかばうとするならばプレッシャーはあったと思います。なぜなら、渋沢栄一はその頃色々活躍していたからです。なんて言えばいいのか偉人な親がいるからこそ自分も頑張らないとメンツがないとは思っていたはずです。実際に頑張っても渋沢栄一には及ばない感じではありましたしね。要するに、ただ、遊んでいたというよりかは何かしらのストレスがあったから女遊びに走ったの門思われます。

面白エピソード

渋沢篤二は女遊びをしまくっていたことから面白いエピソードがあります。どんな話かと言いますと1891年に渋沢家家訓にこんなことが書かれていました。

子弟には卑猥なる文書を読ましめ、卑猥なる事物に接せしむべからず。また芸妓芸人の類に近接せしむべからず。

現代語で言えばエロ本読むな。芸妓や芸人も近づいちゃダメ、絶対!みたいな感じの意味です。渋沢栄一だって女関係は色々ありたよ?そんな発言ブーメランです。でも、そんなことを言い出すなんて相当のことだと思っていいのかもしれませんね。しかも、幕末と明治では倫理観も違うですし余計にやめてほしいと思ったんでしょうね?

 

まとめ

たしかに色々問題起こしていたのは間違いないです。問題と言っても女関係くらいですけど←。ただ、先ほども述べたようにプレッシャーは大きかったと思います。渋沢栄一を越せられないみたいには言われていたと思いますしね。そう言ったことを踏まえるとお金持ちの家の後継って幸せではないのかなと思いました。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう