藤原道長の妻!源倫子とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!藤原道長って有名な貴族であるということはご存知かと思われます。平安時代のことなんて詳しくわからない私でもその人の名前はわかります。とは言っても何をしたのかに関してはわからないですけどね。ただ、今回話すのは道長ではないです。道長の奥さんです。平安時代も上の地位の人に関しては複数の奥さんはいたそうです。サブの人の肩書きは戦国や江戸の時とは違うそうですけどね。その中でもメインの人は藤原倫子という人でした。その人なんですが目立った性格ではないですが奥さんとしてかなりの貢献をした人です。ではいったいどんな人だったのか?この記事にて話したいと思います!

源倫子のプロフィール

藤原道長のことはわかる人もいるとは思いますが倫子のことはわからない方もそれなりにはいると思います。ですので、彼女のプロフィールから見ていきたいと思います!

名前 源倫子

下の名前の呼び方はりんし、みちこ、ともこの3説があります

出身地 京都

生年月日 964年

没年 1053年6月19日

源倫子の人生

以上が倫子のプロフィールです。長く生きた感じがしますね。では彼女はどんな人生が歩んだのか?

1.生い立ち

倫子は964年に鷹司左大臣あるいは一条左大臣と呼ばれる源雅信の娘としてに生まれました。ちなみに、雅信は宇多天皇の孫にあたるため倫子はその血筋から将来は天皇の后にと期待されて育ちます。ですが、年頃を迎えたときにはすでに摂関政治のシーズンでした。摂関政治とは天皇の外戚として摂政や関白などの要職を占め政治の実権を独占し続けた政治体制のことを指します。そのため、貴族達の思惑で天皇がバタバタと変わっていたため倫子は后となるタイミングを逃してしまいます。

2.道長との結婚

天皇関係の血筋はあったのに天皇との結婚はできなかったのは残念でしたね。ですが、そんな時有名な貴族の1人でもある道長とのご縁がありました。はじめは道長との縁談を雅信は断るつもりでいました。ですが、花山天皇の退位や幼い一条天皇が即位したことなどでそのご縁を受け入れざる得なくなりました。なぜなら即位した一条天皇はまだ8歳で結婚なんて無理な歳だからです。また、倫子のお母さんこと穆子が道長はハンサムな青年で気に入ったこともあり倫子は道長と987年に結ばれます。

その後、倫子は道長との間に2男4女をもうけそのうち3人の娘が天皇の后となったことから道長を天皇の外戚へと押し上げました。また、この結婚によって政治面でのライバルだった兼家と雅信の緊張した関係が緩和に繋がっていきます。結婚がいいものとなりましたね。

3.女性でも官位を得る

998年の正月に行われた女性に五位以上の位階を授ける儀式こと女叙位で倫子は従五位上を得ました。また、998年の10月には一条帝に彰子を入内させるにあたって道長のお姉さんこと詮子の推挙で従三位を賜ります。そして、1000年には土御門邸から入内したことを理由に従二位を与えられました。これを見ても地位のある女性であったことは事実ですね。その後も倫子の昇進は続き1006年に正二位1008年には敦成親王が生まれたことで従一位を得ることができました。この事例は無官の女性が従一位になった最初の例と言われています。

4.晩年

地位はあるものの倫子は土御門邸で入内した娘らを育てて入内の後も付き添うなどその献身的な働きと人格による朝廷への貢献は並々ならなかったそうです。また、道長が死去したのちも出家するまで(1039年に出家しました)藤原家を支えました。そして、1053年に短90歳の長寿を保っていなくなりました。

源倫子の特徴

倫子の人生はこんな感じです。天皇の家に嫁げなかったとしても貴族として権力を得た道長と結婚できたのはステータスを得たと言っても同然です。ただ、それだけの女性ではないです。最も栄達した女性の1人とも評価されています。ではそんな彼女にはどのような特徴があるのか?

1.ふっくらした見かけ

倫子は肖像画などが残っていないません。そのため、どんな見た目をしていたの明確にはかわかりません。ですが、栄花物語という作品の中で倫子に雰囲気について触れている箇所があるそうです。どうやらそれによると倫子は小柄でふっくらした美しい女性だったそうです(平安時代の美人の基準は今の時代とは違います。平安時代はふっくらで細い目をしている女性が美人だそうです)。また、髪の毛がとても長くて美しくかったと書かれています。また、栄花物語には45歳の時の倫子が20歳前後の見た目をしていたとも書かれているそうです。これに関しては盛っている気しかしませんね。

2.華やかで社交的

栄花物語は道長が醍醐天皇の孫にあたる源明子をもう一人の妻としたときの倫子の様子を次のように書いているそうです。

道長は倫子と水も漏らさないほど仲睦まじく過ごしていたが、やがて源高明の末の姫君(明子)と親しい仲になられた。土御門の姫君(倫子)はつらいお気持ちながらも、¥とても気性の穏やかな方なのでおっとりとなさっている

道長は権力者だから妻が1人なんてことはないです。そのため、倫子は辛い思いはしたものの、顔には出さないでいたそうです。また、栄花物語にはよく宮中に参内する倫子の姿が記されています。具体的には娘たちが中宮という立場を得ても宮中で威厳を保つには細やかな実家のサポートが欠かせなかったそうです。倫子も気配りなどをきちんとしていたのかなと思われます。そうじゃないと官位なんてもらえませんからね。

藤原道長との夫婦仲

このように、見かけも中身もできた女性ではありました。では、道長との夫婦仲はどんな感じだったのか?

1.高嶺の花だった倫子

道長といえば摂関政治を行った権力者というイメージがあります。ですが、そんな道長から見ても倫子は高嶺の花でした。まず倫子は第59代宇多天皇の曾孫にあたるため藤原氏より身分が高かったです。また、倫子は源雅信の長女だったのに対し道長は兼家の五男坊でした。さらに結婚当時の年齢は倫子が24歳で道長が22歳です。そのため、倫子のおとうさんこと雅信は藤道長との結婚に乗り気ではなかったそうです。ですが、倫子のお母さんこと穆子が道長を気に入っていたためその後押しを得て無事に結婚に至ったのです。また、栄花物語によると兼家はこの結婚に恐縮していたそうです。これは今で言う逆玉の輿ですね。

2.道長に同行しまくる倫子

道長は御堂関白記という日記を残しているのですがその白記に倫子はたくさん登場します。どうやら道長は倫子と行動をともにしていることが多く天皇のお住まいによく一緒に行っていたりお寺にお参りにいっていたり宇治に遊びに行ったりしているそうです。かなり出かけている感じがしますね。それもあって、毎日一緒に行動しているのではないかと思われるくらいだったそうです。ちなみに、御堂関白記への倫子の登場回数は300回を超えているそうです。これを見ても道長と倫子は仲のいい関係でもあると同時に道長にとっては仕事上でも頼れるパートナーとみなしていたのかなと思われます

紫式部に嫉妬していた?

紫式部日記には倫子が紫式部に嫉妬したのではないかといわれる疑惑のシーンがあります。後一条天皇が生まれた時道長はお祝いの儀式を盛大に催しました。その際に酔っぱらった道長は紫式部にふざけかかり着物の袖をつかんで歌を詠めと迫ります。ただ、道長は酔うと気が大きくなるタイプなのを紫式部は分かっていたからなのか紫式部自身は酔っ払いの戯言だと思って聞いています。ですが、倫子はうるさいと思ったのか部屋を出て行ってしまったそうです。もちろん、道長は倫子の後を追いかけていきました。この描写を見ても倫子は道長と紫式部の関係には嫉妬していてもおかしくないですね。光る君へでもそんなシーンはあるのかなと思われます。

まとめ

色々調べて見ましたが平安時代の女性としてお手本って感じがしますね。書き過ぎたせいでそれしか言えなくなっちゃっていますがwwwwwwww。あと、史実抜きにして光る君へでは紫式部との関係が気になっています。初っ端から何もない関係はないって感じはしますから。何と言えばいいのか特別バトルしあうみたいな感じにはならなくても女の関係って感じがするというのか。紫式部は道長の愛人説があるからこそそうなるのも無理ないですけどね。まあ、そこらへん含めて楽しんで見れたらいいなと思っています。以上です!

最後まで読んでいただきありがとうございました。