泰時の奥さん!矢部禅尼とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!北条泰時の奥さんは誰の子でしょう?ヒントは義時くんの親友です。答え言っていますねwwwwww。そうです。三浦義村の娘さんです。ちなみに彼女の名は鎌倉殿では初さんと呼ばれていますが歴史的な資料では矢部禅尼と呼ばれています。なんで、その方の話をするのか?それは矢部禅尼がいてくれたことで北条家は強くなれたからです。では、どんな人だったのか?今から話したいと思います!

※女性で史料が少ないため長くは書けないと思います。

矢部禅尼のプロフィール

まずは矢部禅尼のプロフィールから見ていきたいと思います!

 

名前 矢部禅尼

生年月日 1187年

没年 1256年5月6日(享年70歳)

矢部禅尼の人生

以上が矢部禅尼のプロフィールです。では、彼女はどんな人生を歩んだのか?

1.三浦義村の娘として生まれる

幼い頃のデータはないです。三浦義村の子であるのは事実ですが。三浦家は頼朝に仕えていた家の1つであり北条とも縁があります。そのため、ただ、1194年2月に泰時13歳で元服した際に、北条泰時と結婚するのに相応しい人を三浦の家から見つけろということになりました。これは頼朝のリクエストだそうです。ただ、すぐに結婚と言う事ではないです。8年後の1202年8月23日に北条泰時に嫁ぎました。ちなみに、矢部禅尼という名前は、出家後に呼ばれていた名称です。

2.泰時と離縁?

矢部禅尼が結婚した翌年1203年には、北条時氏が誕生しています。ですが、理由が不明な形で離縁しました。それで、北条泰時の後妻である安保実員の娘が1212年に次男の北条時実を産んでいます。離縁した矢部禅尼は三浦一族で佐原盛連に再嫁しました。そして、蘆名光盛、加納盛時、新宮時連の3人を少なくとも出産したそうです。それで、1233年夫・佐原盛連が無くなると、三浦・矢部郷にて出家したようで、法名を禅阿・矢部禅尼と称しました。

3.宝治合戦になる

1247年、執権北条時頼と足立景盛のの策謀にて、三浦家の当主・三浦泰村は鎌倉にて挙兵し「宝治合戦」となります。三浦一族の多くは、三浦泰村に従いました。ですが、母が明確に矢部禅尼だとわかっている蘆名光盛、加納盛時、新宮時連、佐原経連、比田広盛、藤倉盛義、猪苗代経連らは、北条時頼に味方しています。きっと、矢部禅尼が北条時頼を支援するように命じたのかなと思われます。
実際に、佐原氏の大半も三浦泰村と行動を共にしました。ですが、敗れた三浦泰村は、妻子や一族郎党の約500名と共に自刃しました。

4.最期

この結果、矢部禅尼の子供たちの佐原氏は、三浦一族で、唯一生き残った家です。そして、加納盛時は三浦姓を名乗ることを許されて、三浦家を再興しています。そして、矢部禅尼は1256年4月10日に不食の所労にていなくなりました。享年70歳です。

なんで泰時と離縁したの?

矢部禅尼はなんで北条泰時と離縁したのか気になりますよね?ですので、一応ネットで調べてみました!
まず北条泰時ですが御成敗式目を制定し、評定衆という合議機関も設置した有能な執権です。ちなみに評定衆には、矢部禅尼の父・三浦義村も加わっています。さらに、北条泰時の娘が三浦義村の子・三浦泰村に嫁いでいます。これを見ても北条との関係は良好でした。しかし、1203年~1206年の間に矢部禅尼と北条泰時は離縁になったと推測できます。でも、原因は不明です。

まとめ

泰時くんの奥さんがまさかの義時の親友の娘だとは思いませんでした。なんか、ここまで来るとさすがだなと思います。家のつながりもそうですしただの友情ではなくビジネスパートナーとして繋がっているなと。鎌倉殿でもそういうところは見ていけたらいたなと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう