純粋かつ天然武将!和田義盛とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!鎌倉殿の癒し担当はたくさんいます。ですが、色々な都合により退場しています。色々な事情に関しては触れないでくださいwwwwwww。というか、ここら辺は見ている人ならば察しですよね。ですが、唯一の癒し担当がいます。その名は和田義盛です。彼がいなかったら鎌倉殿はドロドロと言っても過言ではありません。また、実朝の拠り所も消えてしまいます。そして、史実の義盛もドラマほどではないですが癒せる一面があったそうです。ですが、そんな義盛も悲しいエンドで終わってしまいます。では、彼はどんな人生だったのか?この記事にて話したいと思います!

和田義盛のプロフィール

まずは義盛の基本情報を知るためにもプロフィールから見ていきましょう!

名前 和田義盛

生年月日 不明

死亡日 1213年5月3日(享年67歳)

補足事項

鎌倉幕府における初代侍所別当です。ボケてても別当ですら、源平合戦では源氏方の武将として活躍しました。ですが、頼朝死後に義時と対立して滅亡してしまいました。

あと、話しは違うんですが写真の絵と鎌倉殿の義盛の顔似ていると思っています。

和田義盛の人生

以上が和田義盛のプロフィールです。では、彼はどのような人生を歩んだのか?

1.三浦の支流として生まれる

和田義盛は1147年に三浦義明の息子こと杉本義宗の子として誕生しました。和田家は坂東八平氏の1つで三浦一族の支流です。所領は相模国三浦郡和田郷、または安房国和田御厨にあります。それ故に義盛は和田という苗字としています。このような状況を見ると義盛は三浦家とは本家の人間という事になります。

2.源平合戦にて活躍

三浦の家だと義盛は源氏側です。ですので、石橋山の戦いではしくりました。ですが、再起を賭けるために義盛は頼朝の使者となり有力勢力の上総広常を味方にさせることができました。その後は順調です。その功もあって駿河国での富士川の戦いでは平家の勘違いで勝ちました。また、義盛は初代侍所・別当に任じられました。その後は平家追討軍の軍奉行とし九州平定に従軍したり、芦屋浦の戦いや壇ノ浦の戦いでは得意の弓で活躍しました。

3.13人の合議制のメンバーとなる

皆さんご存知の13人の合議制です。その際に義盛はメンバーの1人となりました。ボケキャラでもメンバーなんです!現実はあそこまでボケてないと思いますが。メンバー時代の時は梶原景時の変にて景時を失脚・討伐してから景時に奪われていた侍所別当職に復職しました。また、比企能員の変で比企を討伐したり、畠山重忠の乱では義盛が大将として出陣したりしました。鎌倉殿では腕相撲しようとか言ってましたが←。このように、色々実績はあります。

また、頼家がいなくなって時政が執権として権力を持ち始めたとしてもその後も義盛は一貫して北条に貢献しています。

4.和田合戦でいなくなる

義盛を中心とする和田家は力をつけていきました。鎌倉殿だけの話にはなってしまいますが実朝には頼られていますしね。というか義盛のボケを相手する実朝は優しいなと思っちゃいます。

ですが、悲しみはこれからです。重忠が滅亡した時に時政が追い詰められました。まあ、重忠は理不尽な形でいなくなったのは時政のせいでもありますからね(元凶さ平賀ではありますが)。その影響で義時と時政は対立し時政は失脚します。そして、義時が2代執権に就任しました。また、義時は政子と共に実権を握るようになった時です。義時と義盛と対立します。彼は義時のやり方が許せなかったんだと思います。それ故に1213年義盛は義時の和挑発に乗った形で挙兵しました。これが和田合戦です。その際に義盛は三浦を頼ります。ですが、平六こと三浦義村は裏切ります。なんで裏切ったかに関しては別の記事で話したいと思います!もう義盛はどうすることもできません。それ故に鎌倉の由比ヶ浜で戦死しました。ちなみに由比ヶ浜には今でも和田塚という地名が残っているそうです。

和田義盛の性格

鎌倉殿ではかなりボケてますよね。あれでも侍所別当です←。でも、あれはドラマだし史実でもそういう一面あるのと疑問に思いますよね?実はですので、今から話したいと思います!

1.兄弟共にやらかす

石橋山の戦いで敗走していた時、三浦の軍勢は鎌倉の由比ヶ浜で平家方重忠のと遭遇し合戦となります。重忠は途中から源氏側になりますがこの時はまだ平家側です。源平盛衰記によると手柄に逸る義盛が畠山の陣の前で名乗りを挙げて挑発し戦いそうになりました。ですが、三浦と畠山の秩父氏では親戚縁者も多いため争いは良くないとなり和解しました。ちなみに、鎌倉殿で義盛と重忠がたまに仲違いになったいるのはこのエピソードがあるからです。

さて、本題に戻りますと和解するって話に進んでいたのに義盛の弟、義茂が畠山の陣に突入して合戦となりました。もちろん、双方に死傷者は発生しました。鎌倉殿では義盛1人の勘違いでした。ですが、史実では兄弟2人でやらかしていた可能性もあります。兄弟揃って今後のこと分かっていないって笑っちゃいます。

2.壇ノ浦でムキになる

壇ノ浦での話です。義盛は目立ちたがり精神を発揮しました。なんと目印をつけた遠矢に射かけて300m以上も飛ばしました。その際にひょろひょろな平家がこんなことできるのかみたいなことを言って挑発させたそうです。重忠の時と同じでないかと思いましたwwwwwww。これに対し、平家は動揺しませんでした。むしろ、平家の強弓の使い手、仁井親清を呼んで矢を飛ばさせました。その矢は義盛の馬の近くまで飛びます。その状況に平家は嘲笑しました。

一方義盛は激おこです。船に飛び乗り、平家の武者をボコボコにしたそうです。その当時、義盛は38歳です。それなのに、子供のような一面がありました。鎌倉殿でもそのシーン見たかったです…。

推しじゃないけど好きなキャラ

ディスってるの?褒めてるの?どっちなのと思いましたよね。褒めています。私の推しは平六です。ですが、鎌倉殿の義盛は好きなキャラです。あのキャラは必要です。だって現実の鎌倉初期はドロドロですよ?面白みもないです。そこが戦国時代と違うのかもしれません。戦国時代は変人が多いからドロドロでと笑いはあります。ですが、義盛があることによって笑いや癒しが得られます。畠山重忠の乱のとき重忠に腕相撲しようって提案したときは笑っちゃいました。あれもしアドリブだったら最高ですwwwwww。あのキャラだからこそおとなしい実朝も頼りたくなるんでしょうね。もし義盛がいなくなったら実朝にとっての次の癒しは誰になるのか。トキューサですかね?

まとめ

義盛の結末は義時との対立です。その事実からしても時政パパが失脚してからが義時は本当の悪人になっていくのかなと思います。いや、悪人にならざる得なかったが正しいんですかね?義時目線としてはこんな感じですかね?一方で義盛目線でみると逆らったりしたら終わりだったということでもありますね。先ほども述べたように対立内容に関しては別の記事で書きますが義時に向かって調子に乗るなと警告したのに滅ぼされる。義盛からしたら理不尽かと思います。ただ、個人的にはどんな最期を迎えるかは楽しみではあります。重忠の時のようにいい意味で涙を流す結末であることを祈っています。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう