幸村さんの晴れ姿!天王寺口の戦いとは何か?

どうも、りかちゅうです!大阪冬の陣は家康が大阪城に大砲を打ったことで(茶々や秀頼のいる所に目掛けて)和睦という形で終わりました。浪人からしたら無念と思いますよね。無念というよりかは一文なしになります。なぜなら、浪人は戦うことによって報酬を得られるからです。あと浪人からしたら勝って地位を得たいですからね。そのため、浪人達は戦をさせるように挑発をしました。それによって大阪夏の陣が勃発しました。この時に幸村さんは荒ぶります。なんと、家康の本陣に凸って家康を追いかけ回します。どれだけ追いかけ回したかはのちほど話しますね。ちなみにその戦いを天王寺口の戦いといいます。これは夏の陣の中でもラストの戦いです。では一体どんな戦なのか?この記事にて話したいと思います!

大阪夏の陣のきっかけ

大阪の冬の陣で一旦は和睦をしました。それで終わりかと思いきやそうはいきませんでした。夏の陣が起きました。ではなぜ起きたか?

1.堀の復旧

大坂冬の陣が終わってから大坂城に残った豊臣家は浪人達に堀や塀の復旧をひそかに命じます。なぜなら和睦の時に大阪城は外堀も内堀も壊され、丸裸になってしまったからです。いくら戦は終わってもこれは腑に落ちないですからね。なんとかしてでも守りが欲しかったのかと思われます。これはなかなか大胆なことをしますね。

2.浪人達の暴動

勝手に掘りを復旧させるなんてハイリスクです。それだけで亜割ではないです。なんと浪人が堺などの大坂城下の町いる人達に対して乱暴を働く事件が発生しました。それだけではないです米や材木を備蓄する動きがありました。家康はもちろん許しません。そこで、1615年3月に豊臣家に対して浪人を解雇するか大坂城退去のいずれかを求めました。もちろん豊臣側はどちらも拒否です。そのため、家康は1615年4月6日に大名達に豊臣家を攻めるよう命じます。一方の豊臣家は戦いは避けられないと思い武器を用意し堀を掘り返すなどして戦に備えます。ただ、この段階で豊臣家を捨てて大坂城を去る人もいたため軍勢は冬の陣の時は10万だったのに夏の陣では7万8000人と人数が減っています。

天王寺口の戦いが起こった経緯

このように、浪人の挑発によって夏の陣が起きました。堀がないため完全に野戦です。その野戦の中でも天王寺口の戦いが一番の見どころです。ではなんで天王寺口の戦いが起きたのか?

天王寺の戦いが起きる前に伊達政宗と幸村さんが対決しました。余談ですが2人は同い年です。幸村さんは伊達政宗の軍を軽く蹴散らします。強い武将の1人でもある伊達政宗をコテンパにするなんて幸村さんは天才ですね。その際に退く伊達勢に向かって「関東の兵に男はおらんのかーい!」と言ったそうです。このような姿を見た伊達政宗があれこれと理由をつけて幸村さんとの戦闘を嫌がりました。ですが、次第に豊臣方の敗報が増えていきます。これはもう家康の首を取らないと勝ち目はないです。そこで、賭けですが真田さんは毛利勝永と連携して徳川本陣に凸ることを決意しました。これが天王寺口の戦いです。

大阪夏の陣と言えば天王寺口の戦い!

大阪冬の陣といえば真田丸の戦いならば夏の陣は天王寺口の戦いの戦いです。冬の陣では真田丸の活躍がすごかったですね。ただ、それだけで終わりではないです。幸村さんは天王寺口の戦いでも荒ぶりました。ですので、その話をしたいと思います!

1.地の利を生かした豊臣軍

1615年6月3日、大坂城にまで追い詰められていた豊臣方は最後の決戦に挑むために大坂城を出発しました。それに対して徳川方は天王寺口と岡山口より大坂城に向けて進軍します。軍勢は徳川が15万人ならば豊臣は5万と人数では徳川の方が有利です。ですが、幕府軍を狭い丘陵地である天王寺に引き付ける手をとりました。敵方からしたら谷を越えないと本陣にたどり着けませんからね。そうすることで敵を順次撃破して撃破していくことができます。

2.豊臣秀頼は動かない

岸辺露伴は動かないのテンションでタイトルとつけました。大阪夏の陣の際豊臣方の総大将は当たり前ですが秀頼です。そのため、秀頼は出陣しないと示しがつきません。それなのに、秀頼は出陣しませんでした。なぜなら、茶々が反対したからです。茶々には戦のセンスのなさが伺えますね。秀頼が前に出ないと士気が上がらないのに何をやっているんだと思いますね。こればかりはお嬢だからしょうがないですね。ですので、秀頼なしで動かないといけなくなりました。

4.毛利勝永の活躍

はじめは茶臼山に徳川軍を引き寄せ明石全登を迂回させて家康のところに凸る作戦でした。ですが、毛利勝永隊が先走って天王寺口の本田忠朝隊に銃撃をあびせました。また、毛利勝永が幕府方先鋒大将である本多忠朝を討ち取りました。さらに、崩れた本多勢を救援しようと幕府方の小笠原勢が駆けつけるも小笠原勢も毛利勝永によって壊滅しました。それだけではないです。先鋒が崩れたことで二番手である榊原勢も混乱に陥れ敗走させたことによって三番手の酒井勢も壊滅します。その結果、家康本陣は無防備という状況になりました。その勢いで幸村さんは家康のところに向かいます。この流れを見ても毛利勝永の功績があったから幸村さんは家康のところに凸れたのかと思われます。それなのに影の存在になっちゃうのが残念です。

5.幸村さんと家康の直接対決

先ほども述べたように毛利隊の活躍により徳川軍は大混乱に陥り天王寺口の後方にいた家康の本陣が無防備になります。こうして前線が崩れて徳川家康の本陣は丸裸となるのを見たのと同時に茶臼山から討って出て松平忠直勢とすれ違うような形で敵陣突破し家康の本陣を目指しました。その際に幸村さんはずっと「味方が豊臣軍に寝返った」という嘘を徳川軍に伝えてさらに混乱させながら3回にわたり攻めこんだそうです。このとき、徳川の旗印が倒れて土まみれになります。そのような非常事態は武田信玄に惨敗した三方ヶ原の戦い以来でした。それで終わりではないです。幸村さんは逃げる家康を11kmにわたってしつこく追いかけまわしました。幸村さんの執念すごいですね。一方で家康は逃げてる途中であまりの恐怖から2回も自害しようとしました。にしても、おじいちゃんなのに11kも逃げれるってすごいですね。その体力分けてと思っちゃいます。

 

負けても官軍な幸村さん

幸村さんは家康を追い詰めたのは事実です。あと少しで家康を打てていたかもしれません。ですが、結末は家康の援軍が来たことて討たれてしまいます。休憩している時に討たれたそうです(討った奴のことをずるいぞと思う人はそうですね)。やはり勢力は組織力の面では負けてしまいますね。それでも幸村さんは評価されました。その功績の影響で英雄扱いされていましたし。あと、敵なのに幸村さんの味方をしていた家があります。それは伊達家です。伊達政宗や相方の片倉小十郎は幸村さんの家族を保護しました。もちろん、家康には秘密にですよ。そんなことあるのと思いますが本当の話です。このように、結果は負けているのに評価されています。勝てば官軍という常識を覆す話の1つでもありますね。それ故に私は幸村さんのことを負けても官軍と言っています。

まとめ

幸村さんが家康を追いかけ回したことは知っていましたがこんなに長い経緯があるとは思ってもなかったです。毛利勝永が協力していたこでここまでやれたことなんて初知りでした。毛利勝永も話題にしてほしいですね。いやするべきです。あと、夏の陣を見ても安泰している人よりも夢を追う浪人の方がいざという時のパワーがすごいのかと思われます。幸村さんも夢を追う方が輝いていると言っていますしね。そう考えるとたとえ結果は負けたとしても浪人舐めんなよと思ってしまいました。以上です!最後まで読んでいただきありがごうございました。

りかちゅう