決め手は水鳥?富士川の戦いとは何か?

どうも、りかちゅうです!平家物語や源平合戦などに詳しい方ならばこのような描写はご存知かと思われます。どんな描写だよって?本当は水鳥の群れがただ飛んだだけなのに源氏側が襲ってきたと思い込んで逃げていったことです。漫画とかでは源氏側がわざとじゃなかったけど水鳥を驚かせちゃったことで飛んだみたいになっていますけどね(真相はタイムスリップしないと分からないですが)。もうこの描写を聞いただけでも何の戦いか分かりますよね?そうです。富士川の戦いです。私的にはまさかの平家側の勘違いで勝っちゃうとかあるんだねと思っちゃいました。それもあって印象に残っています。ですので、今から富士川の戦いについて話しますね!

富士川の戦いとは何か?

富士川の戦いとは何だよと思う方もいるかもしれません。源平合戦に詳しくない人ならばそうですよね。ですので、まずはどんな戦いかについて話しますね!富士川の戦いとは源氏が石橋山の戦いで敗れてから再起を図った戦いです。詳細としては1180年10月20日な駿河国富士川にて頼朝・武田信義と平維盛が戦いました。そして、源氏側の主役は武田信義です。どういうことかと言いますとまず、頼朝は現場にいたわけではないです。武田信義がメインで戦っていました。また、武田信義絡みで平家側の勢いが衰えました(それ以外にも理由はありますが)。その話は後ほど話しますね!

富士川の戦いが起きたきっかけ

概要としてはこんな感じです。では、なぜ富士川の戦いが起きたのか?

1.挙兵の知らせ

まず、9月1日に平清盛は大庭景親から頼朝が再起を図った知らせを聞きました。そこで、平清盛は9月5日には、平維盛を総大将にした討伐軍の派遣を決定しました。ですが、軍勢を準備するのに手間がかかりました。その話は後ほど話しますがこの時点で平家は劣勢になってしまいました。

2.源氏の挙兵

一方、源氏は関東の多くの武将が集まりました。その中の1人に武田信義もいます。富士川の戦いの主役です。ちなみに彼はあの伝説の武田信玄の子孫であります。それで、10月16日鎌倉からも源氏の軍勢が出陣しました、そして、10月18日夜に源頼朝は黄瀬川沿いに布陣しました。結果としては、大庭景親は平維盛に合流しようとしましたが源氏の陣を突破できなかったため10月18日に降伏しました。

ただ、それで終わりではないです。2日後の10月20日に頼朝は富士川近くの賀島(今の言う静岡県富士市)まで、軍勢を進めまた平家とぶつかりました。これが富士川の戦いの始まりです。

富士川の戦いの流れ

富士川の戦いのきっかけはこんな感じです。簡単に言えば両者がぶつかった場所と思えばいいです。では、具体的にどのような流れで富士川の戦いは進んだのか?

1.平家の脆さ

先ほども述べたように平清盛は孫の平維盛を総大将として派遣します。ただ、こんな時にアクシデントが発生しました!なんと、内部調整が難航してしまったことから派遣は遅延しました。それ故に東国に到着したのは10月になってからです。これはもう平家側からしたらこの大事な時期に約1ヶ月も時間を無駄にしたことになりますね。

まさに致命的なアクシデントです。平家軍がモタモタしている間源氏側は何をしていたのか?なんと石橋山で惨敗した源頼朝は安房国において大幅に軍勢を増やしました。具体的には上総広常を味方に付けました。それ故に頼朝は念願の鎌倉入りを果たします。鎌倉は源義朝と馴染みのある所です。さらに、武田信義は駿河国へと進軍し駿河国の目代を殺害します。要するに、平維盛の遅れのせいで源氏はどんどん強くなりました。

2.平家軍の脆さ

とりあえず遅れながらも進軍した平家軍です。遅れている時点でアウトですがもっとアウトなことがありました。それは闘う人のモチベーションが低迷していたことです。まず飢饉などの影響で兵糧が上手く確保できませんでした。さらにそれだけではないです。平家軍は上から目線で出兵を命じただけ出した。それ故に兵士のモチベーションはとても低かったそうです。上の人間が上から目線だったらやる気無くしますよね。これは今も昔も変わらない話ですね。

3.武田信義のトラブル

先ほども述べたように1180年10月14日に武田信義は駿河へ侵入し駿河国の目代を殺害しました。一方、平維盛を総大将とする平家軍は10月13日にやっと駿河国に入ります。それで、10月17日に駿河国の目代を倒し勢いに乗る武田信義は平維盛に使者を通じて平維盛を挑発します。内容としてはこんな感じです。

かねてよりお目にかかりたいと思っていましたが、その機会がなく残念に思っておりました。幸いにも追討軍の使者として来てくださっているので、こちらから参上したいのですが路が遠く険しい。ここはお互い富士山の麓の浮島ヶ原で待ち合わせ、お目合わせしましょうぞ

この発言に平維盛の重臣は激怒しました。それ故に武田信義の使者を斬り殺してしました。それなのに、翌日の10月18日の戦いでは武田信義の使者を斬り殺してしまったことで多くの平家軍たちは武田信義の復讐に怯え動揺していました。ならば斬るなよと思いますが。

4.水鳥で逃げる

モチベーションもないし復讐に怯えるなどもう平家側からしたらツムツムです。源氏は沢山の兵がいましたからね。それ故に10月20日の夜に恐怖と絶望に包まれた平家陣営の近くで水鳥が一斉に飛び立ちました。それにビビった平家軍はこれを武田信義の奇襲だと勘違いし一目散に逃げ出してしまいます。戦わないで源氏が勝ったとはそういうことです。

富士川の戦いの後の影響

富士川の戦いによって源氏は優勢になりました。では、双方はこの戦いによってどのような影響が出たのか?

平家の場合

戦わずして敗走した平維盛はもちろん平清盛に怒られます。しかも、平清盛の怒りは激おこぷんぷん丸だったそうです。いや、激おこスティックファイナリアリティぷんぷんドリームくらいですかね?ふざけたこと言うなって?すいません。話を続けます。まあ、とにかくこの負け方にお怒りになって平清盛は平維盛に対して平安京内に戻ることを禁止しました。まあ、源氏が上京するのを防ぐための非常に重要な戦だから平清盛が激おこになるのも無理ないんですけどね…。そこはギャグ入れないのって?わざと入れませんでした←。

源氏の場合

とりあえず戦わずして勝者となった武田信義は、駿河国を支配しました。そして、駿河国に身を置きつつ少し経ってから平家追討のため西進することになります。ただ、頼朝側は違います。頼朝は軍をさらに西へ進めようと考えまさた。ですが、一度関東に戻り、関東の反抗勢力を抑えてからの方がいいという意見があったため一旦は鎌倉に戻り関東の支配に力を入れました。

 

まとめ

これはモチベーションと運の影響で勝敗が決まったのかなと思われます。私的には源氏は寄り道はあったものの計画通りに進められていたかと思われます。味方も順調に増えていましたからね。一方で、平家はモチベーションはただ下がりです。まあ、あんな環境だったらモチベーション落ちますよね。それ故に本量が発揮することはできませんでした。それもあって水鳥を源氏軍だと勘違いしたのかもしれません。このような状況から見ても源氏側は順調に味方をつけただけでなく運が良かったと言えます。それ故に運もデカいと思っています。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう