資本主義の父!渋沢栄一の人生!

どうも、りかちゅうです!渋沢栄一という名前を聞いたことはありますか?おそらく、日本史登場する人物の1人でもあるので名前だけなら分かるという人はそれなりにいるのかと思われます。その人がどうしたんだよって?実はこの方、「第一国立銀行」と呼ばれる日本で最初の銀行を作ることにに携わったり、JR東日本や三井住友銀行など今でいう大手企業の設立にも携わりました。それもあって彼は近代日本資本主義の父とも呼ばれています。それくらい偉業を果たしたということですね。では、そんな彼の人生はどのようなものだったのか?この記事にて話したいと思います!

渋沢栄一のプロフィール

渋沢栄一の名前は知っていたとしてもどんな顔をしていてどんな奴だよってなりますよね?ですので、簡単なプロフィールを作りました!

名前 渋沢栄一

生年月日 1840年2月13日

没年 1931年11月11日←享年92歳

出身地 武蔵国榛沢郡血洗島村

※今の埼玉県深谷市血洗島村です

職業

幕臣・実業家・慈善家・官僚・教育者

渋沢栄一の人生

以上が渋沢栄一に関するプロフィールです。次に本題でもある渋沢栄一の人生について話しますね!

1.農商家に生まれる

渋沢栄一は1840年に現在でいう埼玉県深谷市で三男坊として生まれました。ただ、上の2人のお兄さんは早くに亡くなったため、渋沢栄一が長男のポジションとして育てられました。渋沢栄一の実家は豊かな農商家です。農民と何が違うかと言いますと農商家は農家の作業だけでなく商売もします。また、渋沢家は養蚕(ようさん)や製藍の商いもしていました。このような環境から見ても商売感覚経済感覚が磨かれること間違いなしですね。

2.尊王攘夷と慶喜

1840年といえば幕末あたりです。その当時は日本は家康が幕府を開いたあたりから鎖国状態でした。ですが、ペリーが黒船で来航し外国の軍事力に恐れをなした幕府が開国したため多くの外国人が入り込みました。長年鎖国だったのに急に入ってきたらビビりますよね。

それもあって天皇は外国人を恐れていました。そこから、「天皇が何より大事」だと考える多くの日本人が尊王攘夷運動をしだしました。尊王攘夷とは、天皇を守って外国人を追い出そうという思想です。もちろん、渋沢栄一はそのうちの1人でした。それで、1864年に江戸幕府第15代将軍となる一橋慶喜(のちに徳川慶喜)に武士として仕えることとなります。まさかの将軍となりうる立場の人に仕えるとは相当ですね。

3.パリを巡る

1866年、一橋慶喜が15代将軍徳川慶喜となったのと同時に、渋沢栄一も幕臣となりました。それで、慶喜が将軍時代の時に渋沢栄一は慶喜の異母弟である徳川昭武と「パリ万国博覧会使節団の一員」としてフランスへ渡ります。これが良い機会となりました。ヨーロッパ各国を視察して回った渋沢栄一は、大きな感銘を受けました。ヨーロッパには先進的な産業、資本主義や独特の経済学といった、当時の日本見たことのない文明がありました。そりゃそうですよね。日本なんてね?機械の開発なんてそうなかったですもんね?このような体験があったことは後々に生かせること間違いなしですね。

4.日本初の株式会社

1968年に明治になりました。もちろん徳川慶喜は将軍職を退き徳川幕府はおしまいです。その際、渋沢栄一は静岡で謹慎生活を送っている徳川慶喜に会い行き、静岡藩に仕官することになりました。それで、翌年の1869年に日本初の株式会社「商法会所」設立し、静岡藩の借金返済の仕組みを作りました。商法会所は官民合同で設立しました。ちなみに事業内容は殖産興業と今で言えば銀行のような業務も行っていました。具体的には現金の貸し付けや預金の受け付け、米穀や肥料の買い付け、殖産興業のための資金貸与などです。初めて会社作った人とはなかなかの強者ですね。

5.官僚から実業家

商法会所を設立したのと同じ年、明治政府は渋沢栄一を民部省に招待しようとしていましたが断るつもりでいました。なのに官僚なったのかというと早稲田大学を創立した大隈重信が説得させたからです。ちなみに大隈重信はその当時民部大蔵両省で大蔵大輔を務めていたいました。それで、渋沢栄一は民部大蔵両省に仕官することとなりました。ですが、官僚生活は長くはありません。1873年33歳のときに大蔵省を辞職して民間実業家として活躍を始めます。日本初となる銀行「第一国立銀行」(今のみずほ銀行)の総監役に就任したり、1878年5月に東京株式取引所を設立しています。ちなみに、彼は約500もの企業に関わっていたそうです。

6.教育事業にも携わる

渋沢栄一の活躍は、実業界だけに留まりません。約600にも上る教育機関 ・社会公共事業の支援や民間外交などもしていました。なぜ、そのようなことをしたかというと日本が国として発展して豊かになることは社会的な弱者は少なくなるものの貧富の差は広がっていたからです。そこで、彼は東京養育院を作り貧しい人を保護しました。

7.引退後も民間外交をやる

渋沢栄一は76歳で実業界を引退しました。ですが、引退前後は民間外交にも力を注ぎます。1909年には、69歳で渡米実業団を結成して団長を務めアメリカのさまざまな機関に行ったそうです。その頃のアメリカは日系移民の排斥運動が起こっていました。これを見た渋沢栄一は、1916年に日米関係の改善するために日米関係委員会を結成します。日本もアメリカも尽力しましたが、残念ながらこの努力は実りませんでした。その後は引退し1931年にいなくなりました。

渋沢栄一の功績

このような人生を見てもかなりすごいとは思いますよね。まあ、環境的にも経済や経営のことを学習できるのはできたとしても努力がないとここまでできません。ではそんな彼にはどのような功績があるのか?功績の内容としては主に3つですね。まずは日本で初めての銀行を作ったことですね。金融機関の整備があったからこそ日本が経済大国として外国と肩を並べることができたかと思われます。それ以外にも500もの会社を携わるのもすごいことかと思われます。ちなみに今でいう東京ガスや東京海上日動などの大手企業もあります。これが2つ目です。

3つ目は教育機関の設立です。教育の発展がなくして国力は高まらないと考えたからかと思われます。一橋大学、東京経済大学、日本女子大学、東京女学館は渋沢栄一が携わったようです。

※この話に関しては別記事にて詳しく話したいと思います!

私が好きな渋谷栄一の名言

渋沢栄一はやはり有名な事業家だけあって名言もそれなりにあります。その中でも私が好きな名言は「論語と算盤」です。本の題名なんですけどね。どういう意味かに関しては今から話しますね。まず、「論語」とは道徳のことを指します。一方、「算盤」とは利益を追求する経済活動のこと指します。要するに、「利潤と道徳を調和させる」ということです。なんで好きな言葉かと言いますとビジネスってお金儲けというのは前提ではありませんか?だからって、人のことを騙したり、お金稼ぎの道具みたいな扱いはよくないです。やはりお金を儲けるに人を喜ばせることも必要ではないかと思います。だからこの発言にはすごく共感します。

※ちなみに私のキャリアビジョンにもこの話は取り入れています!私は「ロマンと算盤」です。「論語と算盤」を派生した感じです。どういうことかに関してはこの記事を見れば分かります。

なぜ未曽有なビジネスをするのか~前編~

まとめ

2021年の大河ドラマが渋沢栄一ということで今回この記事を書きました。書いてて思うこととしてはとりあえずすごい奴だなということです。なんですごいかって?それは渋沢栄一がいなかったら今の世の中にない会社があるということです。具体例を言うならばみずほ銀行だって渋沢栄一がいたからあるということでもありますし。本当やりてなんだなと思いました。ですので、これを機に渋沢栄一のことについて研究していこうと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう