渋沢栄一は改正掛で何をしたのか?

どうも、りかちゅうです!渋沢栄一は明治になってからは明治政府として活躍しました。元は幕臣で新政府とは敵みたいな感じだったのにそんなことあるのって?あったんです。商法会所を設立した実績があったからこそ明治政府になれたんです。もちろん、幕臣の人が明治政府として活躍するのを疎ましく思う人はいましたけどね。ですが、そんな中、渋沢栄一は色々な成果を作ったのは事実です。それで、渋沢栄一は明治初期に改正掛という機関を立ち上げて政策に携わりました。では、渋沢栄一は改正掛で何をしたのか?この記事にて話したいと思います!

改正掛とは?

まず、改正掛ってってどんな組織なんだよと思いますよね?ですので、まずは改正掛とはどういう機関かについて話したいと思います!改正掛(かいせいがかり)とは1869年12月20日に民部省に設置された部局です。民部省の組織の1部だと思えば良いです。ただ、1870年8月6日に移管され1871年9月11日に大蔵省と民部省の再統合の際に廃止されてしまいました。このように、機関としては短い間しかなかったです。ですが、明治政府にとっては必要な制度改革を作成しました。これが国民にとって良いものとは限らないですけどね?

改正掛ができた経緯

改正掛の概要はこんな感じです。にしてもどうしてできたんだよと思いますよね?ですので、次にそこら辺について話しますね!

1.新しい国家が作れない?

1869年に民部大蔵省の大輔(ステータスの名前です)であった大隈重信は大蔵省の官僚であって郷純造のすすめによって渋沢栄一を登用しようとしました。ですが、渋沢栄一は現状の民部大蔵省のあり方では新しい国家体制を作れないと言い辞退しました。そこで、若手官僚から渋沢栄一がその体制を作る中心になるべきであると言い渋沢栄一を説得させました。また、大隈重信や民部大蔵卿の伊達宗城からも要請を受けたことから渋沢栄一が掛長(租税正兼務)として省内改革を推進する組織こと改正掛を発足しました。

2.頼もしい存在

大隈重信は伊藤博文や井上馨を通じて政策課題などの諸問題について下問を行い、改正掛が企画・立案を担当しました。さらに、海外留学などで欧米の事情に明るい前島密や杉浦譲らを加えて充実させました。このようなメンツは色々な成果を上げたことで先駆け的な存在でありました。また、掛長であった渋沢栄一は伊藤博文や井上馨とともに大隈邸に出入りして改正掛での議論などを大隈に報告したり大隈と親交があった山口尚芳などと議論を重ねたりしたそうです。また、大隈重信の盟友からは積極的に改革の提言をもたらす改正掛の存在が頼もしい存在であったと言っていたそうです。

改正掛がやったこと

このように、改正掛は期待されていた機関でした。では、具体的にどのようなことをやったのか?一部になりますが話していきたいと思います!

1.郵便制度の創設

前島密がメインで行った政策です。詳細としては1871年3月1日(新暦では4月20日)に東京・大阪間で官営の郵便事業(制度)が開始されてから日本の郵便の始まりとされているそうです。ちなみに、創業当初は三府(東京・京都・大阪)に政府直轄の「郵便役所」が設置されたり東海道の各宿駅には民間の協力で「郵便取扱所」が置かれたりしたそうです。また、明治時代になってからポストができたそうです。

というか、明治前は郵送はどうしてたのって?飛脚です。飛脚は通信物と距離などによって料金は違います。一方で郵便の場合、料金に一定の決まりを設けました。

2.殖産興業の推進

改正掛は欧米に追いつくようにしたいと考えていました。となると、工業などの産業を盛んにしてなんとしてでも競争に負けないようにしないといけないです。そこで、殖産興業を推進しました。有名なのが群馬県にあった富岡製糸場ですね。工場の建設費や働いていた人の給料には税金が投入されたそうです。それくらい投資したいことだったんでしょうね?また、機械は主にフランスから輸入され、蒸気エンジンで動いていたそうです。

まあ、そこまでは別になんともないですよね?ですが、なによりウザいことがありました。なんと、フランスから呼びよせた技師長の給料は1年間で約2,700円でした(明治30年の時の1円は今でいうと3800円なのでもっと高いかもしれないですね)。一方で工女の中で一番多くもらっていた人が1年間で25円だったそうです。どんだけ外部の人間にお金出すんだよと思いますねwwwwww。

3.廃藩置県の提言

新政府は、天皇を頂点とする中央集権国家を作りたいと思っていました。そこで、藩主に土地と人民を朝廷に返させました。それを版籍奉還と言います。ですが、元々の藩主が知藩事としてそのまま藩政を行っていたことから効果が薄かったです。そこで、まずは知事藩を廃止して中央から新たな府知事選や県令を派遣する廃藩置県を提言しました。明治政府の思う壺にしたい感じですかね?

4.身分解法令

これはすぐに施行されませんでしたがこの発言のおかげで実行されたものです。簡単に言えば江戸時代にあったえた非人の廃止です。江戸時代にはえた非人といって士農工商にはカウントされない人達がいました。仕事内容としては処刑された人の遺体処理とかしていたそうです。本当に影の存在ですね。それ故にその身分を廃止して平民の仲間入りにさせたそうです。

改正掛に関するトラブル

このように改正掛はみんなが知っているような改革をしたのは事実です。ですが、トラブルはありました。一体どのようなトラブルがあったのか?

簡単に言えばこのような改革があまりに急進的であったことから保守派や地方官との対立を招いた感じです。特に、欧米の事情に通じた人材となると、幕末期に欧米諸国に留学した旧幕臣出身が占める割合が高くなってしまいます。パリ留学界隈のがまさにそれに当てはまります。それ故に旧幕臣出身官僚の一掃したいと考えていた大久保利通らからの反感を買いました。

このような状況があったことから大久保利通の巻き返しによって大蔵省と民部省が分離してしまいました。また、改正掛は大蔵省に移されるだけでなく、渋沢栄一は掛長を外されたり、他のメンバーが大蔵・民部両省内に分散させられたりしてしまったことにより、改正掛は弱体化していきました。そして、廃藩置県で大久保が大蔵卿に就任するのと引換に大蔵・民部の再合併した際に大久保によって改正掛は廃止されました。ただ、中央集権国家にするために出された改正掛の提言が近代国家の建設に大きな影響力を与えることになりました。これは、権力者にとっては得な話ですが国民なとってはどうなんですかね?ここはあえて多くは語りません。

まとめ

ちょいちょい突っ込み入れてないって?まあ、それはそうですよ。これは権力者にとっては好都合な政策かもしれませんね。ですが、国民にとって良いものなのかはノーコメント状態です。だって、日本って明治維新から乗っ取られてるんですよ?そう考えたらもうねぇって感じです。きっと色々日本史の教科書は明治時代は良いように書いてるんでしょうね?でも、現実は違うんです。それくらい分かっています。ですが、私はみんなに裏を読んで欲しいと思っているからこそ今後の記事もあえて表向きで書こうかなと思っています。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう